藤本鉄石(35)真の忠義 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

高取城の攻略に失敗した天誅組は、再び天の川辻に陣を張りましたが、紀州、津、彦根などの諸藩兵約一万四千がこれを包囲しました。

 

津藩は天誅組に投降を呼びかける書簡を送ります。

 

其許(そこもと)勤王の儀はもっともなれども、五条代官を討ち取り、山林に引き籠もり、みだりに干戈を勤め人民を苦しめらるる條、恐れながら叡慮を悩まされ候。何分、形にては朝敵同様の義に付き、早々降参に及びなば京師向きは如何とも周旋の仕様にこれ有るべし。さもこれ無きに於いては勅命を蒙りたる事なれば、やむを得ぬ事攻め潰し申すべく候。

 

これに対する天誅組からの返書は以下のとおり。

 

その方こそ形に於いては勤王の様なれども実は朝敵なり。且つ、朝敵と幕府との差別、君臣主従の理合、よく勘合し勤王の実を尽くされるべし。

 

倒幕の先駆けと称される天誅組ですが、「朝敵と幕府との差別」との文言から、幕府と敵対するというよりは幕府内に巣食う「開国主義者の朝敵」を排除しようというのが彼等の真の目的であったのであろうと思われます。

 

九月十四日、ついに天の川辻の本陣は幕府軍の攻撃を受け、天誅組は敗走を余儀なくされます。その夜、藤本鉄石は精鋭十二人を率いて彦根藩の陣取る下市に夜襲をかけ、各所に火を放って退散しましたが、主力の十津川郷士が天誅組を離脱するに至り、中山忠光卿はついに天誅組の解散を命じます。

 

残された隊士たちが為すべき事はただ一つ、中山忠光卿を無事に脱出させる事だけでした。池内蔵太(土佐浪士。のち海援隊)ら精鋭を選んで中山卿につけて大坂に向かわせると、残った者たちは幕府軍を足止めするべく攻撃を仕掛けます。

 

文久三年九月二十五日、本隊と離れて行動していた藤本鉄石は、鷲家村の旅籠日裏屋(紀州藩脇本陣)に突入しました。

 

家来の福浦元吉と、たった二人だけの突入でしたが、紀州藩兵は大混乱に陥り、隊長の金沢弥右衛門は裏の鷲家川に飛び降り、騒ぎが収まるまで対岸の八幡神社に隠れていました。

 

日裏屋の主人徳三郎は、家族を避難させ一人日裏屋に留まっていましたが、その元へ藩兵が押し寄せて「隠れる場所はないか」と口々に言うので、呆れた徳三郎は「何ぞ出て戦わざるや」と一喝したと言います。

 

福浦元吉は屋内へは入らず、玄関口にて屋外の藩兵と戦っていました。『偉人藤本鉄石』では元吉が六尺(182cm)の大男だったので玄関をくぐり損ねたとしていますが、それは野暮というものでしょう。元吉は鉄石に立派な本懐を遂げさせるために、敢えて玄関先に踏みとどまったのではないでしょうか。

 

元吉は両刀を抜いて紀州藩兵と切り結んでいましたが、老兵川上七郎がそのすきを狙って長槍を突き、槍は元吉の左腹部を突き刺して、ついに福浦元吉は斃れました。

 

一方、単身日裏屋に突入した鉄石は台所にて藩兵と戦っていましたが、その最期は詳しく伝わっていません。それだけ屋内の藩兵は混乱していたのでしょう。騒動が静まった時、その死骸を見て彼等は、討ち入って来たのがたった一人の武士であった事にようやく気づいたのではなかったでしょうか。

 

 

藤本鉄石死す。享年四十八歳。その辞世の句に

 

雲をふみ 巌をささげん 武夫(もののふ)の

             よろいの袖に 紅葉かつ散る

(※.「捧げる」=この場合「岩を高く持ち上げる」の意)