文久三年(1863)八月十三日、孝明天皇が神武天皇陵に参拝し、攘夷親征(天皇自身が攘夷を主導すること)を宣言するという大和行幸の詔(みことのり)が発せられました。
この大和行幸の先駆けとなるべく、吉村寅太郎(土佐郷士)、松本奎堂(三河刈谷脱藩)ら30数名の浪士は、中山忠光卿を擁して一路大和国を目指します。
ちなみに隊名ですが、彼等関係者の書き残したものは、ほぼすべて「天忠組」となっており、幹部の一人伴林光平の『南山踏雲録』の文中にも、高野山門徒が彼等を「天忠正義の方々」と称したとある事などから、彼等自身は「天忠組」と名乗っていた事がわかりますが、当時から世間ではもっぱら「天誅組」の字を用いて彼等を呼んでいました。
藤本鉄石が家来の福浦元吉を連れて天誅組に合流したのは同月十七日の事、天誅組は後村上天皇の御陵や楠木正成の首塚がある、南河内郡川上村の観心寺に駐留しているところでした。
吉村寅太郎、松本奎堂と共に総裁に推される事になる鉄石ですが、天誅組には途中から合流した事になります。この事から、鉄石本人の意志による加入というよりも、吉村や松本、あるいは中山忠光卿に強く請われての参加だったのではないか、という気がします。
そういう意味では、かつて清河八郎に請われて彼の運動に参加した時や、のちに西郷隆盛が不本意ながらも私学校党に擁立され、反政府の兵を挙げた時と似た心境だったのではないかと思われます。
天誅組はその日の夜に五条代官所を襲撃し、代官鈴木源内とその部下4名を殺害、その首を五条の町はずれに晒して気勢を上げますが、明けて文久三年八月十八日、京の都では思わぬ事態が発生していました。
会津、薩摩を中心とした公武合体派による、長州など尊王攘夷派追い落としのクーデタ、俗に言う八月十八日の政変です。この政変により、孝明天皇の大和行幸は中止となり、天誅組はその存在意義を失ってしまうのです。