さて、今回からしばらくは
東塩小路村に建設された六条御隠居屋敷が、実は新選組「不動堂屯所」であると想定して、その結論に導くにはどう考えれば良いか。
を考えていきます。つまりは「はじめに結論ありき」の「たられば話」である事をはじめにお断りしておきます。
という事で、まず重要なのが六条殿御隠居屋敷が東塩小路村のどこに建てられ、どのぐらいの規模だったのかを探り出す事です。
しかし、用水路を元にその場所を割り出そうという考えは、京都市歴史資料館所蔵の「東塩小路村絵図」によって、実は村中に用水路は張り巡らされていたので特定は不可能という、考えてみれば当たり前の結論に達してしまいました。
しかし、実は京都市歴史資料館において、もう一つ重要な史料を見せていただく事が出来たのです。
その名は「城州葛野郡東塩小路村御水帳」(以下「御水帳」と略す)です。
「城州葛野郡東塩小路村御水帳」(京都市歴史資料館所蔵)
これは画像のとおり、東塩小路村に知行地を持つ
若宮八幡宮
仏光寺
六条道場(歓喜光寺)
一条道場
建仁寺
堀池御仲間
清水(寺)成就院
太子堂
の耕作地の割り振りを記録したものです。残念ながら作製年代は不詳(江戸時代なのは間違いない模様)ですが、農地なので幕末まで大きな変化はなかったはずです。
「これならば六条道場(=六条御隠居屋敷)の場所が特定出来るんじゃないか」
期待に胸を膨らませてこの「御水帳」を開いてみましたが、僕はかえって大きなショックを受ける事になってしまいました。