昨日、大阪市天王寺区の心眼寺に行って来ました。
心眼寺といえば、昨年の大河ドラマにもなった、大阪の陣において真田幸村(信繁)が大阪城の出丸「真田丸」を築いた場所として知られています。
しかし、僕の今回の目的は、このお寺を有名にしたもう一つの歴史的な事件、幕末の慶応三年十一月十五日に京の都で起きた近江屋事件で、坂本龍馬・中岡慎太郎を襲撃した京都見廻組の隊士、渡辺吉三郎と桂早之助の墓にお参りする事でした。
京都見廻組隊士渡辺吉三郎(向かって左)と桂早之助(同右)の墓
ネット上の情報によると、以前は墓地の一番奥の山に、他のお墓と一緒にあったようですが、現在は本堂の前に建て替えられています。
ちなみに、「渡辺吉三郎」という表記については以前にも触れましたが、せっかくなのでもう一度説明しておきたいと思います。
渡辺吉三郎は、同じく近江屋事件に加わった今井信郎の証言により、「渡辺吉太郎」の名前の方が通りがよくなっていて、実は心眼寺さんも「吉三郎」は誤りだとしてしまっています。
しかし、彼が「吉太郎」と名乗っていた事が確認出来るのは、見廻組加入時に書かれた『京都御用留』ぐらいしかなく、おそらく前職である神奈川奉行所勤務時代に「吉太郎」と名乗っていたので、神奈川奉行所で同僚だったと思われる今井信郎(同じ直心影流の剣客でもある)は、そちらを記憶していたのだろうと思われます。
下画像は『京都御用留』の渡辺の記述がある部分です。
京都見廻組◯
元神奈川奉行所支配定番役
熊井助次郎
右同断
元同断
渡邉吉太郎
とあります。
その一方、見廻組加入後の記録としては
『在京鳥取藩士用状』(慶応三年十一月六日)に見廻組肝煎の一人として「渡邊吉三郎」とある他、『戊辰東軍戦死者霊名簿』(御香宮神社)には
正月三日より五日に至る鳥羽淀橋本等に於いて負傷戦死。遺骨は大阪小山橋寺町心眼寺に葬る。
見廻組肝煎 渡邉吉三郎 二十六歳
更に心眼寺の過去帳にも
信光院天誉忠吏義順居士
渡邊吉三郎
正月五日徳川旗本見廻組肝入戦死
とあります。記述者が違う複数の史料に、いずれも「吉三郎」と表記されている事を考えると、見廻組加入後に「吉太郎」から「吉三郎」に改名したのではないか、と思われます。
さて、事件の舞台となった近江屋について少し。
近江屋は明治維新後も井口醤油店として営業を続けていましたが、大正十三年から昭和二年にかけて河原町通りの拡張工事が行われ、その際に元の家屋は取り壊されてしまい、井口家は隣で商売をしていた骨董商井筒屋に土地を譲って、よそへ引っ越してしまったそうです。
その後、井筒屋の店頭(入口の意味か)に現在の石碑が建てられたというので、実際の近江屋の場所は実はここではなく、画面奥の、隣の星乃珈琲店の方になるのだろうと思われます。※
※.『維新の史蹟』(昭和14年・大阪毎日新聞社)参照。