島田左近暗殺始末(22) すり替わり | またしちのブログ

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実は田中新兵衛に斬殺されたのは島田左近ではなかった。

 

と考えると、では誤って殺されたのは誰なのでしょうか。

 

状況的にみて、誤って殺されたのは西本願寺家司島田左兵衛権大尉正辰だったのではないか、と考えました。

 

これまで何度か紹介してきましたが、島田左近は文久二年一月以来正辰と同じ左兵衛権大尉に叙任されており、“島田左近”が殺された同年七月の時点で二人の呼び名は全く同じ「島田左兵衛権大尉」殿だった事になります。

 

更に気になるのが、島田左近暗殺事件に本間精一郎の名が出て来る事です。

 

和宮降嫁を主導した岩倉具視ら四奸二嬪の処罰を望んでいた本間精一郎(※1)が、その和宮降嫁に大きく関与した島田左近と接近するというのは考えにくい話です。

 

が、長州藩と接近し、下宿先の田代屋に「長州家来本間精一郎」と表札を掲げるほどであった本間ならば、長州と親しかった西本願寺の家来であった島田正辰と関係を深めようとしたとしても、それはごく自然な成り行きであったはずです。

 

また、そもそも島田正辰は歌人、文人として著名な人物(※2)でしたが、左近の死後は慶応元年より三カ年の月日と一万二千両近い費用を投じての荒神橋(勤王橋)懸架、本願寺門主文庫写字臺文庫の整備、屯所の西本願寺移転を求める新選組との折衝など、精力的に活動しています。

 

まるで人が変わったようではありませんか。

 

というわけで、以前書きかけた小説では、勤皇の志士たちに狙われていると悟った左近が、わざと正辰と同じ左兵衛権大尉の官位を得るなどして志士たちが正辰を左近と間違えるように仕向け、正辰が暗殺された後は自ら正辰になりすましたという筋書きにする予定だったのです。

 

ただ、小説の中の話としては面白いかもしれない「すり替わり」も、実際には正辰の家族や知人たちが黙っているわけがなく、現実的な話とは言えません。

 

 

 

では、現実的に考えられるのはどういうケースになるのだろう、と考えてみた結果、ひとつの可能性が思い浮かびました。それは

 

そもそも島田左近はいなかった。

 

というものです。

 

 

現在の荒神橋。大正3年に架橋された日本初の鉄筋コンクリート製桁橋だそうです。

 

※1.本間精一郎(9)

※2.『平安人物志』にも文雅家の一人として紹介されている。