京都へ行って来ました(8)招魂社に葬られた赤報隊士(四) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

霊明神社の西墓地には、他にも足利三代木像梟首事件に関与し、赤報隊とも関わりが深い国学者師岡正胤(節斎)の墓や

 

 

 

 

天誅組総裁の一人松本(謙三郎)奎堂の顕彰碑などもあります。

 

 

 

 

西墓地内をグルグルと見回っているうちに気づいたのですが、少なくとも僕が目についた範囲では、どうやらほとんどの墓が明治30年代以降に建てられたもののようです。

 

つまり、川喜多真一郎の墓が建てられてから20年ほどの間、この西墓地には川喜多の墓だけが建っていた可能性があります。

 

 

 

上の写真は西墓地全体を見下ろしたもの。画面中央やや上よりの、一基だけ黒ずんでいるのが川喜多の墓です。

 

ひょっとしたら、この西墓地は川喜多の墓を建てるために造成されたのではないか、そんな気もしました。

 

だとしたら、この場所は川喜多に何か縁のある場所だったのかも知れませんね。『平安人物志』(慶応三年版)によると、川喜多の住所は下鴨になっているのですが・・・。

 

 

 

さて、川喜多真一郎については、また後日まとめる事にして、そろそろその後の事を書いておかないと忘れてしまいそうです(笑)

 

霊明神社をあとにした頃、既に時計の針は2時半を回っていました。雪が降っているし、日が暮れるまでに帰りたいと考えていたので、そうなると京都を3時には出ないといけません。

 

「仕方がない。壬生は次回に持ち越すか」と思ったのですが・・・

 

 

 

 

 

あっ・・・

 

いえ、その・・・

 

あ、行きます!行きます!

 

 

 

・・・というわけで(うそ)、壬生へと向かいました。幸い雪もやんできました。

 

(五条通りのどこかの歩道橋です)