石部宿の惨劇(六) その後 | またしちのブログ

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これまでの事件の経過を簡単にまとめますと

 

文久二年九月二十三日
八つ時(午後2時頃)、刺客団草津宿を出立
七つ時(午後4時頃)までに刺客団石部宿に到着
七つ時過ぎ(午後4時~5時)、渡辺金三郎ら石部宿入り
六つ時(午後6時頃)、襲撃
五つ時(午後8時頃)、刺客団草津宿を走り抜ける

 

となります。誰が誰を襲って斬ったのかなど、わかろうはずもありませんが、五十嵐幾之進の談話に

 

私はその晩は行かなかったが、翌日木屋町の瑞山先生の宿所に参りますと、薩人が一人血糊の付いた刀を抜いて改め居る。堀内賢之進にあれは誰であるかと聞くと、あれは薩の田中新兵衛である。実は昨晩しかじかの事で我々は石部へ迄出掛け、大仕事をやって来たとの話で御座りました。

 

とあり、田中新兵衛が誰かを斬った事だけは間違いなさそうです。

 

 

 

刺客達は、五つ時半(午後9時)頃には矢橋の渡し(草津)から早船で大津に向かいましたが、槍2本に風呂敷3つが括りつけてあったと水夫が証言しています(『戌九月二十三日石部宿殺害一件掛り合之もの申立書』)。

 

この槍2本を渡し場の雲助に大金を払って担がせ、京まで同行させましたが、風呂敷の中身が何であるかは最後まで知らせなかったようです。


また、船出の際に船主が「夜分の船出は御法度となっております」と断ったところ、「異儀候はば可打捨候(文句があるなら斬り捨てるぞ)」と脅されたと言います(『今泉蟹守雑録』)。

 

船は大津問屋場へ着船して、そのまま粟田口の刑場まで、雲助に槍を担がせて行きました。

 

 


翌二十四日朝、粟田口に3人の首が斬奸状と共に晒されました。京の町は大騒ぎになり、三条通りまで野次馬が群がって通行も出来ない程だったと言います。

 

 

「渡辺金三郎等梟首図」

 

 

さらに西町奉行所与力飯室彌一郎は、渡辺金三郎らに1日遅れて二十四日に江戸へ向け出立する予定でしたが、三条寺町辺りで事件の一報を聞き、すぐに自宅へ引き返しました。

 

しかし、何か思うところがあったのか、駕籠の中で切腹して果てていたと言います(『松代藩士山寺源太夫雑記』)。

 

 


これらの事件に対して永井主水正、瀧川播磨守の両町奉行の対応は冷ややかで、部下の同心達に向かい「身に覚之有之候者は覚悟可致(身に覚えのある者は覚悟せよ)」と通達しました。

 

その結果、同心の小寺仲蔵、村井某の2人がすぐさま切腹、高屋助蔵は落髪して出家、他にも出奔して行方不明になる者もありました(『大津詰探索田村五百代探索書』文久二年十月二日)。


京の治安は大混乱に陥ったのです。