一方、東海道鎮撫総督軍は大津から東海道筋を進み、一月二十二日に四日市宿へ到着します。
翌二十三日、総督橋本実梁は参謀の木梨精一郎(長州)に命じて各隊を桑名に向けて進発させますが、この時の桑名城攻めの陣容は『小寺玉晁雑記』によれば以下のようになります。
桑名より来状之写し
勅使 総督副将軍 四日市本陣清水御旅館
橋本少将・柳原侍従 手勢五十一人
亀山勢陣所 富田二百五十人
因州勢陣所 四日市千余人
佐土原勢陣所 四日市百余人
細川勢陣所 同九百五十余人
大村勢陣所 同百余人
備前勢陣所 同五百五十余人
彦根勢陣所 同二千余人
水口勢陣所 同二百五十余人
膳所勢陣所 同二百余人
多羅尾勢陣所 同四十余人
合て五千七百余人
(中略)
又々俄に藤堂様御人数千五百人、其外尾張様高須様挙母様三州吉田様御人数等追々出張に相成申し候
とあります。数字が出ているだけで七千二百人余りとなりますが、徳川御三家筆頭の尾張徳川家は、おそらく藤堂藩並の人数を差し向けたのではないかと思われるので、総勢は一万人近くになる可能性もありそうです。
また、「官軍」といえば薩長土のイメージがありますが、桑名城攻めに参加した諸藩を見てみると
伊勢亀山藩(石川家)
因幡鳥取藩(池田家)
佐土原藩(島津家)
肥後藩(細川家)
肥前大村藩(大村家)
備前岡山藩(池田家)
彦根藩(井伊家)
水口藩(加藤家)
膳所藩(本多家)
多羅尾陣屋(多羅尾家)
と、実は薩長土の軍勢は参加しておらず、むしろ徳川親藩を中心にしていた事がわかります。
ちなみに多羅尾氏というのは近江国甲賀・神崎・蒲生などの天領約十万石を代々支配した代官で、元は本能寺の変の際に。徳川家康の伊賀越えに貢献して旗本に取り立てられた家柄です。幕末期には四日市代官を兼務していました。
そして攻撃部隊は亀山藩を斥候役とし、本道から備前・大村・藤堂藩、浜道(搦手)からは佐土原・彦根藩、浜手より水口藩、関ヶ原間道には膳所藩が、そして肥後・因幡藩が後詰となって桑名城へ向け進軍して行きました。
※.桑名城攻撃部隊進路
「桑名城攻撃部隊分屯略図」(『東海道先鋒記』より)参照
