神代直人の出自を探る(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

大村益次郎殺害犯の一人で長州藩士神代直人について、以前(3)でもうひとつの名前がある事を紹介しました。

「京都府ヨリ賊徒関島金一郎飯田藩於テ捕縛ニ付受取置候旨届」(国立公文書館デジタルアーカイブ)の中の「神代直人事鷲巣正作」と言う記述です。

京都府から飯田藩へ送られた届書であり、京都府の重職にはかつて神代と顔見知りであった事も考えられる長州藩出身者が相当数いた事から、これはかなり正確な情報なのだろうと思っていましたが、今回堀内誠之進について調べてみると、少し異なる情報が出て来ました。

堀内誠之進の口上書に「山口藩神代直人事高須庄作」とあるのです。更には『広沢参議暗殺始末』にも「同年八月中旬伊藤軍曹の招にて山口藩太田瑞穂、高洲庄作ども集会仕候」とあり、こちらでは神代直人の別名は「高須(もしくは高洲)庄作となっているのです。

京都府の届書には信頼が置けるのは前記のとおりですが、堀内誠之進は大村益次郎襲撃の前に神代直人本人と直接面会しています。その点、堀内の証言の方がより信頼出来ると考えて良いのではないでしょうか。

ただ、堀内の証言の方がより信頼出来るからと言って、京都府の記録にある「鷲巣正作」が否定されるべきなのかと言うと、それもまた判断が難しいところではあります。

むしろ二つ姓があると言う事は、いずれかが前名だったと言うよりも両方とも維新後に名乗った変名だったと考えた方が良いのかも知れません。



ちなみに長州で「高須(高洲)」姓と言えば野山獄の女囚高須久子が有名ですが、その高須家と言うのは、長州藩士の中でも家格が上だったようです。

そしてウィキペディアの「長州藩の家臣団」によると、高須家の給領地は周防国吉敷郡の小郡村と鋳銭司(すぜんじ)村の1,019石。なんと大村益次郎の生まれ故郷です。

余談ながら、明治元年頃高須久子は50歳を過ぎたぐらいだったそうですが、一方の神代直人は20代後半から30代前半ぐらいでしょうか。親子と言う可能性も考えられなくはなさそうです。

高須久子は、一生実家からは許してもらえなかったそうですが、その原因が仮に久子の不貞だったとして、神代直人が息子だったとしたなら、母の不貞をたぶん死ぬまで許さなかっただろうな、と言う気はします。

そして高須の姓すら恥として「神代直人」を名乗る事にしたとか…。

ちょっと考えすぎですね。

いずれにしろ、「鷲巣」なら前原一誠と、「高須」なら高須久子や高杉晋作とも縁続きになりそうですが、そう言えば神代直人は高杉晋作を殺そうとした事がある人。やはりわざわざ自ら「高須」の変名は使わないかな、と思えてきました。

答えに近づいて来てはいると思うのですが、もうひとつ決め手に欠けます。