大村益次郎暗殺事件 もう一人の男(4) 自白と謎 | またしちのブログ

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「広沢故参議事件に付き、所々探索」した結果、「不審の次第」があったので逮捕された堀内誠之進は、取り調べに対して次のような点を自供します(日付は原文のまま)。

・土佐国高岡郡仁井田村の庄屋堀内六蔵の次男として生まれる。

・卯年(慶応3年)に土佐藩物産局に出仕する。

・巳年(明治2年)物産局の用向きで大阪に出て、その後学問修行の為京都に入り、四条下ル船頭町の宿屋に坂野治郎、弟了之助と下宿する。

・同年8月、兼ねてからの知人であった兵部省軍曹伊藤源助と再会し、時勢を論じる。

・8月下旬、二条の料理屋で伊藤源助、神代直人、太田光太郎と会食する。その席で神代より大村益次郎暗殺への協力を求められ承諾する。

・9月4日、伊藤ら大村益次郎を襲撃する。

・同月24日、捜査が厳しくなったので京都を脱出。中国地方から九州を遊歴する。

・12月下旬、肥後国熊本の藤崎八幡神社神職鬼丸壱岐方にて、高知藩岡崎強助(変名松浪信蔵)と面会。奇兵隊を助け攘夷論回復を目指すとして、筑後国久留米藩士古松簡二方へ赴く。古松は奇兵隊を助けるだけでは実効は多くないとして熊本藩河上彦斎を同藩の使者と偽って山口藩へ派遣し、奇兵隊と藩兵を両立させるよう説得を試みさせようとするが、実現せず。

・12月10日、四国へ渡り、その後豊津藩小島琢三と佃庄二、二日津一夫、木村路雄、熊本藩木村龍雄、沢春三吉、貝順助右衛門と面会する。その後京都へ戻る。

・11月15日、神戸より乗船し17日横浜に着。翌18日東京に潜入する。秋田藩泉謙三、吉田精一郎、丸岡藩士族中島龍之助、愛宕従四位家来比喜田源二らを訪ねる。

・明治4年2月上旬、愛宕従四位と比喜田源二と同行して元柳原町の料理屋で岡崎強助と再会し、岡崎から柳川藩古賀十郎が東京での暴動を計画している事、秋田藩の中村恕助が秋田で同志を募り日光か宇都宮で挙兵する計画である事を知らされる。

・西郷隆盛を擁立しようとし、万が一西郷に野心があるようなら、その場で刺殺しようと画策するが果たせなかった。

・知人の中島龍之助と比喜田源二の家に代る代る止宿していたところ逮捕される。


そして、堀内誠之進が逮捕されたとされる3月7日、京都において公卿外山光輔が逮捕されたのを皮切りに安政以来の大獄事件と言われる大量逮捕劇が繰り広げられる事になるのです。

が、この堀内誠之進の自供、読んでみるとどうにもスッキリしないのです。

何しろ、始めに書いたように堀内誠之進は広沢真臣暗殺事件を捜査中に、不審者として逮捕されたはずなのです。

なのに、その自供書の中には、広沢真臣暗殺事件に関する記述は、ただの一言もないのです。これは、どう考えてもおかしいと思うのですが…。


※参照.『公文録 山口藩隊卒騒擾始末三』、『広沢参議暗殺始末』他(国立公文書館デジタルアーカイブ)