大村益次郎暗殺事件 もう一人の男(3) 広沢真臣の暗殺 | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

共に起とうと目論んでいた奇兵隊が暴発し、長州各地に戦火が広がるのを横目に、堀内誠之進は四国に潜入した後に再び九州へと渡り、豊前豊津で小島琢三、佃庄二、熊本では木村龍雄、沢春三吉、貝順助右衛門らの同志を集めました。

そして秘かに京都に潜入すると、明治3年11月15日神戸港より船に乗り、17日に横浜に上陸、翌18日には東京に潜入するのです。

そして明治4年1月8日の夜四つ時(午後22時)頃の事です。

東京府麹町区富士見町二丁目二十九番地の参議広沢真臣の邸宅で、家令起田正一は下女の叫び声に飛び起きました。

起田は刀を手に、急いで広沢の居間に駆けつけますが、部屋は鮮血にまみれており、障子の際に広沢真臣が斃れているのを発見します。

起田は下男らを集めて各所に急を知らせると共に、邸宅内を探索したところ、屋敷西側の雨戸が一枚開け放たれていて、賊がここから入ったらしい事を確認、そこから北の方に2,3人分の足跡があったと言います。

これが、現在まで真相不明とされている広沢真臣暗殺事件ですが、この謎多き事件の中で、一つハッキリとしている事があります。

それは、この事件の最初の逮捕者が、他ならぬ堀内誠之進だったという事です。

『太政類典草稿第一編第二百十八巻』
(国立公文書館デジタルアーカイブ)原文読み下し

明治四年三月七日
元高知藩士族堀内誠之進糾問
 東京府届 弁官宛
広沢故参議事件に付き、所々探索仕り候へども、昨六日迄の処為、差して手掛りもこれ無く、もっとも、別紙元高知藩士堀内誠之進と申す者、不審の次第これ有り、召し捕り、一応吟味に及び候に付き、申し口のまま書き取り、取り敢えず御届け申し上げ候也。
四年三月七日東京


明治3年11月18日に東京に潜入した堀内誠之進は、翌明治4年の3月7日に逮捕されるまで、なぜか東京に留まり続けていた事になります。忙(せわ)しなく各地に出没していたそれまでの行動からすると、どことなく違和感を覚えます。

そうして、3月7日に逮捕された堀内誠之進は、どういうわけかその日の内に大村益次郎暗殺事件の経緯を手始めに、これまでの自分の行動と、結盟した同志の名をベラベラと自供し始めてしまうのでした。



※.参考文献『広沢真臣暗殺始末』、『元高知藩士族堀内誠之進糾問他』、『庶務司回議』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

※.コトバンク『堀内誠之進』には「征韓(せいかん)論をとなえる丸山作楽(さくら)にしたがい,明治4年朝鮮渡航をくわだてて捕らえられ」たと、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説を紹介していますが、国立公文書館所蔵の各史料は、上記の経緯で逮捕された事で一致しています。