さて、本間精一郎と殿内大次郎が京を追われ、奈良は法隆寺にまかり越しましてからひと月ほど経った、ある日の話でございます。
「そう言えば思い出した」
「何ですか本間さん」
「アンタは自分の事をボクと呼んでいるが、あれはどういう字を書くのかね」
「ボクというのは、あれですよ。にんべんに、あの、こう」
「にんべんにボクかい」
「そうそう」
と、殿内は自分の手のひらに文字を書いてみて
「いや、違う違う。しもべですよ。しもべと書いて僕です」
「なんだそりゃ。アンタ、名前は殿様なのにずいぶんと控えめな話だな」
「本間さん、別に控えめじゃありませんよ」
と、殿内は姿勢を正して本間に正対いたしました。
「我々は天子様のしもべなのですよ。だから僕なんです」
本間も姿勢を正して聞いております。
「天子様に対し奉りましては、我々臣民は、皆等しく僕なのです。藩士も浪人も、いや、大名だって関係ない」
「ふむ。それじゃあ井伊直弼も僕かね」
「そうですよ。井伊大老も水戸公も島津公も皆僕です」
「そりゃあいいな。井伊直弼も本間精一郎も同じってのがいいな」
「そうですよ本間さん」
「ところで、そうすると村山たかも僕かね」
「女にしつこいのはもてませんよ本間さん」
そこへ平岡次郎が入ってまいりました。本間はその顔を見るなり
「おお、平岡君。今日は一度僕が撃剣の稽古をつけてやろう」