「弾正台の制服」
これは、明治2年11月7日付きの留守官による通達で、法被(はっぴ)は浅黄色と紺の縞模様で襟は黒。陣笠は白と黒の縦筋という、かなり派手なものでした。
こういう感じです。
さて、薩摩藩士有馬藤太は、粟田口停刑事件で大量の退職者が出たあと、権大巡察(大巡察の一階級下)に任命され、京都弾正台に勤務する事になります。
ただ、権大巡察という地位は、有馬の戊辰戦争での戦功に比べるとあまりにも低すぎるものでした。
本人も「海江田が辞職したので、その代わりの弾正大忠に任命されるのだろう」と思っていたら、何階級も下の権大巡察だというので、頭にきて任官を拒否したようです。
しかし、伊地知正治に「西郷(隆盛)に深い考えがあっての事じゃで、是非お請けせんにゃいかんが」と説得され、渋々権大巡察になる事を引き受けたと言います。
結局、一旦権大巡察として任官したものの、すぐに大巡察に昇任したようなので、あるいは海江田の肩を持った事に対する、一時的な懲罰人事の意味合いがあったのかも知れません。
そして、その有馬の回顧録『維新史の片鱗』の中で、明治三年頃の大巡察の制服について紹介されています。
明治三年秋頃かと思う。(中略)
その時の私、すなわち弾正台の大巡察の服装は、白羽二重の着物に黒紋付のぶっさし羽織、黒の義経袴を白い紐でキリリと穿き締め、両刀をぼっこみ、扇子を右手に持ち、下駄履きで山駕籠に打ち乗ったものだ。
西郷先生が桐野を連れて来られるという知らせにより、私は長崎へ迎えた。先生は私の服装を見て、
「藤太どん、おはんのその風は、ソリャ一体なんちゅう風や。まるで役者ん様じゃね」
と冗談を言われた。
つまり、こういう感じでしょうか。
やっぱり、最初の制服は派手すぎて不評だったのでしょうか。わずか1年足らずで黒と白のシックな制服に変わったようです。
しかし、これでさえ「一体ソリャなんちゅう風や」と驚いたという西郷に、前の制服を見せたら、どういう反応をしたでしょうね。
また、その新しい方の制服でも純和装だったという点も興味深いです。明治新政府になって、当然役人の制服は洋装に変わったのだろう、と思っていましたが、そうでもなかったのですね。
当然ながら旧制服も純和装だったのでしょう。
それと、新選組の制服「ダンダラ羽織」で有名な「浅黄色」ですが、一応通説に従い「浅黄色」=「浅葱色」と解釈してみましたが、むしろ読んで字のごとく、浅い(薄い)黄色、つまり「淡黄色(うすきいろ)」の事だったのではないか、と思えてきました。
浅葱色
淡黄色
少なくとも弾正台の制服の方は「淡黄色」の方がしっくりくるような気がします。
・・・やっぱり派手か(笑)
参照 『留守官達』明治2年11月7日(東京大学史料編纂所)
『維新史の片鱗』有馬藤太(国会図書館デジタルコレクション)