『赤報記』に金輪五郎の名が最後に見えるのは、慶応四年(明治元年)2月9日の「滞陣。相楽総三、金輪五郎京地へ発」というものです。
相楽は同月23日に帰陣したことが記録されていますが、金輪が戻ったという記述はありません。そのまま京に留まっていたとも考えられますが、実は『赤報記』全体を通して読んでみると、金輪五郎は京へ行ったという記録がないのに帰って来た記録があったりします。
使者という性格上、他の者に知らせずに出て行ったり、帰って来たりしていたのかも知れませんが、そうだとしたら、案外最後に戻って来ていて、相楽の出頭を見届けてから秘かに京に向かったのかも知れません。すべてを京にいる仲間に知らせるために…。
戊辰戦争終結後、一旦郷里に戻った金輪でしたが、明治2年5月に剣術修行の名目で再び上京し、久保田藩邸や藩の宿舎であった堺屋勇助方(中立売通り千本東町)に下宿していました。
金輪は、かつての同志落合直亮や科野東一郎(改め斎藤謙助)らと再会し、相楽総三ら同志の仇を討つべく岩倉具視襲撃計画を画策しますが、首謀者であった落合が岩倉と直談判した結果、却って岩倉の考えに心服してしまい、計画は頓挫してしまいます。
そして、従軍中に故郷秋田で知り合った五十嵐伊織と再会します。そうして五十嵐と語り合っているうちに、かつて尊皇攘夷を唱えて幕府を倒しながら、手のひらを返して開国政策を推し進める新政府への不満、特に軍隊の西洋化を進める大村益次郎に対する不満が大きくなり、大村斬殺を計画するようになったといいます。
金輪と五十嵐は同志を集め、大村益次郎襲撃を計画します。大村が京都に到着してすぐに大坂へ向かったため、大坂で襲撃する事に決め、9月3日の朝、船で大坂に到着します。
しかし、すでに前日に大村は京都に戻っていたと知り、その夜、金輪ら一行は再び船に乗り、4日朝伏見へと戻ります。
そして、その勢いのまま襲撃しようと決め、西石垣四条下ル町の “浮かれ亭” にて一同支度をする一方、大村と旧知の同志、太田光太郎を探索に向かわせ、大村が三条木屋町の宿舎に在宅であることを突き止めました。
そして、その夜襲撃は決行されたのでした。
さて、大村益次郎暗殺の影の首謀者は海江田信義だった、とよく言われています。が、彼ら犯人グループの中心に金輪五郎がいたという点で、この「海江田首謀説」には疑問が生じます。
金輪五郎が元赤報隊だったということは、これまで何度も述べて来ました。その赤報隊が新政府軍によって粛清される発端となったのが、桑名の東海道鎮撫総督府に出頭した滋野井隊幹部、山本太宰と小笠原大和の処刑でした。
滋野井侍従に従って出頭した二人は、総督府の参謀に尋問を受け、結果打ち首に処されたのですが、木梨精一郎(長州藩)と共に、この東海道鎮撫総督府の参謀だったのが、他ならぬ海江田信義その人だったのです。
滋野井隊は山本、小笠原を含む9人もの幹部が打ち首となってしまいましたが、金輪五郎が属していた先鋒嚮導隊相楽総三以下の幹部が、同様に処刑と決まった過程で、滋野井隊に対する処断が「前例」として参考にされた可能性があります。
つまり、考えようによっては海江田信義こそが赤報隊の仇である、とも言えるのです。
そして、戊辰戦争後再び上京した金輪は、落合直亮や科野東一郎、あるいは滋野井隊幹部の生き残り巣内式部らと交流を持っていた事がいくつかの史料から判明しています。つまり金輪は赤報隊に対する粛清の元凶が海江田であったことを認識していた可能性が高いという事になります。
そうなると、金輪が海江田信義の為に大村益次郎を討つというのは、どうしても考えにくい。むしろ海江田信義をこそ討ち果たしたかったのではないか、と思えてなりません。
しかし、明治2年7月に入り各省が設立されるなどして、海江田は東京と京都の間を行ったり来たりしているし、どうも討つ機会に恵まれずにいた。そんな時に五十嵐伊織らの同志と出会い、大村益次郎襲撃の計画が持ち上がったのではないでしょうか。
京都滞在中に大村が襲撃されれば、大村と犬猿の仲であり、かつ京都弾正台の責任者であった海江田は、当然事件への関与が疑われ、その責任を追求される事になる。海江田の命は奪えなくても失脚させる事は出来るかも知れない。
金輪五郎には、そんな計算があったのではないか、という気がしてなりません。
だとすれば、金輪五郎の思惑は見事に達成される事になるのです。