赤報隊戦記(24) 悪名 | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

慶応4年1月20日、赤報隊は岩手陣屋の前に立札を立てて布告します。

竹中丹後儀雖為朝敵、父図書於祥光寺謹慎罷在候上者、定て御寛仁之御沙汰も可被為有に付、其家来共之儀、最早帰住致不苦儀と思召候間、早々帰宅致相慎居、第一火之元用心等可心付様申達候事。
 正月二十日   官軍赤報隊執事


(訳)
竹中丹後守は朝敵といえども、父の図書が祥光寺に謹慎している上は、きっと寛大なお沙汰が下されるであろうから、家来共は最早帰宅しても良いとの思し召しであるので、早々に帰宅して慎んでいるように。第一に火の元に用心するように申し渡す。
 正月20日    官軍赤報隊執事


それと同時に竹中家の所領である不破郡の岩手村、関ヶ原宿、玉村、山中村、藤下村に対し、「以後は天朝の御領に付、格別の御憐慇を以て、当年の年貢半減に成し下され候」(『大原重実履歴』)と「年貢半減令」と布告します。

一方、この3日後の23日に東山道鎮撫総督岩倉具定に随従して大津にいた香川敬三(東山道総督府大軍監。柳之図子党)は、在京の岩倉具視に書簡を送って年貢半減令実行の是非を問うていますが、岩倉具視の返事は

この事よほど苦心候えども、行われずは別紙に申し入れ候通り也。さりながら民心を治める事口実にすぎずにては決して成るべからず、その間臨機の処置をもって大いに民心をとるべし。さりながら散財穀の筋にて半減と申す事は不可の御事に候。(『岩倉具視関係文書』~佐々木克「赤報隊の結成と年貢半減令」参照)

(訳)
この事は相当苦心したけれども、実行されない事になったのは別紙で知らせた通りである。民衆の支持を得る事は、口約束だけでは決して成功しない。その間(戦争中の意味か)は緊急の措置をもって大いに民衆の支持を得るべきだ。とは言え「無駄遣い」となる年貢半減令を実行する事は出来ない。


と、年貢半減令が実行不可能である事を明言していました。



その一方で、赤報隊にかかる「悪い噂」は、もはや無視出来ないほどになっていました。

滋野井侍従、綾小路俊実朝臣濃州今尾辺出向ケ随従之者、於所々に金策粗暴之由『戊辰京都風聞』
(訳)
滋野井侍従、綾小路俊実朝臣と濃州今尾のあたりに出向き、随従している者は、ところどころにおいて金策、粗暴の行いがあるようだ。


また、在京の三条実美(議定。権中納言)が柳原前光(東海道鎮撫府副総督)に送った書簡に

公寿俊実等朝臣(号赤報隊)麾下不容易暴動之由風聞毎々有之。依是可取調即両朝臣当鎮撫府に可属旨雖朝命漫りに美濃路へ被参、桑城応援之論旨に背き、不容易其上暴蹟承及候得共、濃州路之事故調届兼候條御理申上乍去自然当地に被参候得は可及糺明返答畢。『柳原前光輒記』
(訳)
滋野井公寿、綾小路俊実朝臣の赤報隊は、麾下に不容易なる暴動の噂がいつも聞かれるようだ。その為、取り調べるべく両朝臣に当鎮撫府へ属するように命じたが、朝命をみだりに破って美濃方面へ進出している。
桑名城攻撃に参加するようにとの命令に背いている事も容易ならざる事態だが、その上に各地で暴れまわっているという事だ。
とは言え、美濃方面の事なので、調査が行き届かない事をご理解いただきたい。自然と当地に参るはずなので、その時は糾明に及び、ご返答をいただきたい。


更に谷干城(土佐藩士。戊辰戦争では東山道総督府大軍監)は、1ヶ月遅れで加納宿に到着しますが

先是高松卿滋野井卿等伏見の戦いに勝つや、高松卿等無頼の徒を集め、江州辺より金を募り兵を募り東国追討の義を唱う。
沿道暴乱甚だしく、已に竹中丹後守居宅に押し入り、家財をあばき金穀を奪い、丹後の妻を姦淫し、都て強賊の振る舞い可悪甚だし。官軍の望を失する蓋し是が為也。故に京師より両卿御呼び返しの命あり。
(『谷干城東征私記』明治元年二月二十二日加納に至る)
(訳)
先だって高松卿(高松実村の事だが綾小路卿の間違いと思われる)、滋野井卿などは、鳥羽伏見の戦いに勝つや無頼の徒を集めて近江あたりより金を集め、兵を集めて東国追討の義挙を唱えた。
沿道での暴乱甚だしく、特に竹中丹後守の居宅に押し入り、家財をあばき金や食料を奪い、丹後守の妻を強姦し、まるで盗賊のようなひどい振る舞いが甚だしかった。
官軍が声望を失ったのは、この為である。ゆえに京より両卿に呼び返しの命が下った。


これらの話の中で、どれが真実でどれが噂話にすぎないのか見極める事は困難ですが、その詮索すら必要ないほど赤報隊の悪名は広まってしまっていたと考えるべきでしょう。

ただ、上記の通り、官軍内部でも年貢半減令をやめるかどうかについては、まだ充分な情報が回ってきていない状態であり、この時点で「年貢半減令が実行出来なくなったので、赤報隊に罪を着せるべく意図的に悪いうわさが流された」と考える事は、現実的にはむずかしいと思われます。

また、1ヶ月後の事とは言え実際に現地を訪れた谷干城の記述は、事が事だけに重く受け止めなければいけません。正に官軍全体の名誉に関わる重大事と言えるでしょう。これは京の都に飛び交った噂話ではなく、現地で実際に見聞きした情報だと思われるからなおさらです。

それにしても、竹中丹後守の妻は本当に岩手にいたのでしょうか。あるいは実際は岩手に隠居していた義父竹中図書(重明)の妻だったのかも知れませんが、ひょっとしたら丹後守の妻は、夫は官軍と一戦交えるために必ず岩手に戻ってくるであろうと信じて、江戸に戻らずにとどまっていたのかも知れません。

その結果、このような屈辱を受ける事になってしまったのだとしたら、のちにそれを知った夫の丹後守が決して降伏する事なく蝦夷地まで戦い続けたのもわかる気がします。