本間精一郎(6) だから私は嫌われる | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

さて、そもそも本間精一郎はなぜそんなにまで嫌われていたのでしょうか。

薩摩藩士だけで考えると、饒舌なところや、商人の出であること、そして東国人であることも嫌われる理由だったかも知れません。

しかし、本間は薩摩藩士だけでなく、ある意味周りのみんなから嫌われていました。

その理由は、やはり清河八郎がいう通り「浮才薄行」なところだったのでしょう。ただ、これには清河や本間が置かれた状況を加味して考えなければなりません。

というのも、清河を含め薩摩藩大坂屋敷や魚田屋に集まった人々は、島津久光の上洛に合わせて決起しようと命をかけて集まってきた人々であり、それは必ず成功するものだと固く信じて疑わなかった人々です。本間自身も長州や土佐に赴き、そういう同志を集めてきた人間です。

しかし、彼等ほど純真でも一途でもない「浮才薄行」な本間だからこそ「これは、どうも話がうますぎる」と、どこかで気づいたのではないでしょうか。島津久光の上洛が自分たちが期待しているような目的ではないという情報をどこかで得たのではないでしょうか。そして饒舌で行動的な本間だからこそ、同志たちにもそれを言わずにいられなかったのでしょう。

これは、久光を盟主と信じ切っている同志たちからすれば裏切りでしかないし、のちに本間が「三藩の離間を謀った」として暗殺されたことにも繋がっていくのかも知れません。

『佐々木高行日記』によれば、文久二年四月八日に、吉村寅太郎と共に土佐藩住吉陣屋を訪れた本間ですが、勅命がない事などを理由に義挙への参加を断られてしまいます。説得に失敗しただけの理由で殺意を抱かれるとも思えないので、あるいはこの頃に、本間は現実に気づいたのかも知れません。

ちなみに、この時の本間の身なりについて『佐々木高行日記』には

玉虫海気の小袖に紫縮緬の羽織にて大髪ヲ抜き出し仰々しき躰なり

と書き残しています。「玉虫海気」の「海気」は現在では「甲斐絹」の文字が当てられており、縦横の糸の色を変える事で、光のあたり具合でタマムシの羽のように色が変わる、というゴージャスな絹織物。時代劇でお殿様がよく着用していますね。

一方「大髪を抜き出す」というのが、ちょっと意味不明なのですが、「大髪」はあるいは「大髻(おおたぶさ)」の誤りではないかと思われます。太く結った髷ですね。それを「抜き出す」という言葉のニュアンスから考えると、元結(2点どめ)で固定せずに根元で結うだけで抜き出す意味だと考えれば、いわゆるポニーテールのような形状だったのかも知れません。

それに紫縮緬の羽織だというのですから、例えば大河ドラマ『龍馬伝』の登場人物のように、ちょっと薄汚い(ゴメンナサイ)連中の中にこんな感じの人物が一人混じっていたら・・・・・・・・・
そりゃ嫌われますね、絶対(笑)


本間精一郎