田中新兵衛(4) ~史料も時にウソをつく | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

あいかわらず、幕末の事を色々調べていますが、今調べている中の一人に越後浪士本間精一郎がいます。この人は調べてみると結構面白い。一般的に言われているような、酒色に溺れて志士としての道を踏み外しただけのつまらない人物ではなさそうです。

この本間精一郎は、同じ尊王攘夷派であるはずの土佐勤王党武市半平太や薩摩の田中新兵衛に殺されてしまうのですが、なぜ殺されなければならなかったのかが、どうもハッキリしません。

そこで、殺した側の史料である『維新土佐勤王史』を読んでみました。

『維新土佐勤王史』文久二年八月二十日
藩主入京後、即ち此の月二十日の夜、彼の越後の本間精一郎は京都に於いて木屋町と先斗町の路次に暗殺せられたり。

当時本間は例の弁舌を以て頻りに三奸両嬪の排斥を主張し居りたるが、其の間に金銭を貪り薩長土の志士の間を惑乱するの形跡ありしより薩土両藩の刺客によりて最期を遂げし次第なり。

右の刺客中に以蔵と薩藩の田中新兵衛の加わりたるは全くの事実にて、即ち『隈山春秋』九月十七日の條に左の語あり。


新兵衛性澹泊而多感慨、会誅賊某、嗚呼朋友之義在此可不慨歟可不感歟

賊某は蓋し本間を指すのみ。


つまり、本間精一郎は三奸両嬪の排斥を主張するなどして、表向きは勤王の志士として振舞っていたけれども、その裏で金銭をむさぼり薩長土の志士を引き離そうとする陰謀を巡らせていた、としています。

そして、本間の暗殺に土佐の岡田以蔵と薩摩の田中新兵衛が加わっていた証拠として土佐勤王党の平井収二郎が書き残した在京日記である『隈山春秋』からの引用文を用いています。その意に沿って訳してみますと

新兵衛は単純な性格で感情の起伏が激しく、賊某を殺害するに際して「ああ、コイツは我々の同志ではないか。オマエらはなんとも思わんのか(正確な訳ではありませんが、現代人風の言葉遣いにしてみました)」

と言ったとしていて、その「賊某」が本間の事でしかあり得ない、と言っているのですが、僕はどうもこの言葉が気になってしまって、その真意を探ってみたくなりました。

幸いな事に『隈山春秋』は国会図書館の近代デジタルライブラリーで、その全文を閲覧する事が出来ます(本当に良い時代になったものです)。そして、その結果はやはり『維新土佐勤王史』が述べる内容とは大きく異るものでした。以下『隈山春秋』文久二年九月十七日の内容です。

同十七日晴
田中新兵衛帰于国、予及久坂玄瑞、会於武市半平太旅亭酌別杯、先是伏見之挙、森山新蔵被誅、家為蒙没、報至、新兵衛奮曰、新蔵誠忠而蒙誅、宜止其身也、而家被滅、義不可忍、則当就官而救済之也。新兵衛性澹泊多感慨、会誅于賊某、嗚呼朋友之義素在于此、可不慨歟、可不感慨。


(訳)
田中新兵衛は国に帰る事になり、予(平井)及び久坂玄瑞と、武市半平太の旅宿に集い別れの杯を酌み交わした。

先だっての伏見の挙(寺田屋騒動の事)において森山新蔵が誅殺(実際は帰国の上、自ら切腹)されてしまい、森山家もお取り潰しとなってしまったという報せを聞いた新兵衛は、興奮して言った。

「新蔵は(同志の)誠忠組によって誅殺され、立派な最期を遂げたのだ。なのに家は取り潰しとなってしまった。黙っているべき義にあらず、国に帰って官職に就き、森山家を救済しようと思っている」

新兵衛は単純な性格で感情の起伏が激しく、(森山新蔵を)誅殺したという賊某に対し「もともとは同志だったではないか。(殺してしまって)なんとも思わないのか」(と嘆いた)


少し言葉を補足しましたが、意味はだいたいこのような事だと思います。つまり、この「賊某」は森山新蔵を斬った(と新兵衛が思い込んでいる)誠忠組の士の事を言っているのであって、決して本間精一郎の事を言っているのではないと言う事がわかります。

そして、『隈山春秋』を読んだ事で、スッキリしなかった田中新兵衛の「立ち位置」が見えてきたような気がします。森山新蔵は誠忠組の一員であり、なおかつ元は新兵衛が若い頃に奉公していた商人でした。(このあたりの事情に興味がある方は、以前書きました『朔平門の変』を読んでいただければ幸いです)

新兵衛は、その森山新蔵の名誉を回復するために薩摩に帰国して官職に就こうとしたわけで、つまり新兵衛はやはり森山新蔵や有馬新七らと同調していた誠忠組の仲間だった、と考えて良いと思われます。有馬新七たちと同じ方針で動いていたのでしょう。

そして、ここに一つの疑問が生じます。田中新兵衛は島津織部の家臣、つまり薩摩藩では陪臣という低い身分です。その新兵衛が「就官而救済之也(官に就いてこれを救済する也)」とするのは、口で言うほど容易い事ではなかったはずです。

では、どうして新兵衛は自分が薩摩藩で官に就けると思えたのでしょうか。

それを可能にする一つの手段は、国父島津久光さえも一目置く人物からの推薦状ではないでしょうか。

当時、田中新兵衛がそれを頼みうる「大人物」の一人が侍従姉小路公知であった事は間違いないでしょう。

しかし、もし当てにしていた姉小路卿から「そんな事知らん。森山新蔵?誰やソレ」なんて冷たく言い放たれたら、新兵衛のプライドはズタズタに切り裂かれた事でしょう。森山新蔵に対する思いが強いあまり、頭に血がのぼって「コイツ、絶対殺してやる」と固く決心してしまったかも知れません。

客観的に見て、新兵衛の当時の立場を考えた場合「就官而救済」は無茶すぎる決意だったと思いますが、そうせずにはいられないほどの怒りがあったのでしょう。

それにしても、姉小路公知が暗殺されるのは翌文久3年の5月、時間的に可能とは言え、新兵衛は本当に帰国出来たのでしょうか。

或いは帰国して猟官運動に励んでいる内に、誰かに「姉小路公知卿は薩摩藩にとって邪魔な存在であるばかりでなく、帝も大変ご迷惑を被っておられる。もしお主が始末すれば、代わりに森山新蔵の名誉を回復してやろう」なんてそそのかされたのでしょうか。小説にするとしたら、その方が面白そうではあります。

それはともかく、そもそも新兵衛らに殺された本間精一郎からすれば、この時の田中新兵衛の気持ちは到底納得し難いものではなかったかと思われます。こんな風に・・・

田中新兵衛嘆く