松本さんの絵  第125◎重たかった缶も、それとなく軽く、ゆすると、かさかさと乾いた音がします。 | matのブログ

松本さんの絵  第125◎重たかった缶も、それとなく軽く、ゆすると、かさかさと乾いた音がします。


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図232        友達の親は、親同士も友達だった


  子供のころ、吉田君の家に遊びに行った。友達の父は絵描きさんで、風変わりな感じでした。戦後のモノがないときでしたが、油絵を描いていた。日本人離れした顔立ちで、愛想が良かった。いま思うと、絵で食べてゆけたとは思えないですが、地主だから心配はいらないかも。

 その家の隣は竹屋さんだった。石田くんの部屋に上がるときは入り口に多量の竹が積んであり、そのそばを抜けて二階に上がった。竹は壁に立て、乾かしていた。我が家にはモノがない時代だったが、部屋には蓄音機があり、ハンドルを差し込んでねじを巻いて、レコードを聴かせてくれた。

 そのさきに小児科、内科医があった、沢田くんは部屋に入れてくれなかったが、風邪で熱を出すと、ここで看てもらった。沢田君は医者の子であるのを自覚しているのか、それとなくよそよそしかった。

 京都は戦災で家屋が焼ける事がなかったせいで、戦後も昔のままの隣近所のつきあいが普通で、僕の遊び友達は、その親もまた古き友達だった。



 当時の家の近くには、いまも散髪屋があります。川島さんの父は、僕の父よりも数年先輩で、南洋諸島の守備に徴兵されたため、玉砕で亡くなった。父は大学生だったころに辞書を破って紙巻きタバコを吸っていたが、川島さんが、それをみてパイプを一つ呉れた。黒いパイプを手にとって、父は嬉しかったそうです。パイプタバコのこつは、分るまで辛くて、おいしい味はしないそうです。そのこつが分った時はうれしかったといっていた。パイプをすうと川島さんを思い出すのだそうです。川島さんは、すでに戦死して、帰らぬ人になっていたので伝える事が出来なかったそうです。僕が1973年にロンドンに行くとき、父はおみやげに缶入りのパイプタバコ を欲しいと言った。注文どおりケンタッキークラブ2缶をおみやげに買った。一缶は満足して吸っていたが、のこり一缶はなぜか吸わなかった。そして数年後に亡くなった。いまも蓋を開けずにあります。30年以上もすぎると、重たかった缶も、それとなく軽く、ゆすると、かさかさと乾いた音がします。

            

        父の手記 (戦場にて)

                     

                   1937年10月5日


 未明の敵前上陸( 現在は上海国際ターミナルの税関付近 )。寸前の墜ちる敵機の爆弾。砲煙雨下の難行進軍。言語に絶した泥寧雨中の敵前架橋作業。死んで不思議はない光景。闇の対岸に潜む敵から間断なく火を吐く敵の機銃のおと、耳をつんざく弾雨、倒れる戦友の異様な断末の叫び、ここでは死に直面して、死の瞬間の不思議な心の落ち着きがある。あぶないと思った瞬間耳もとすうセンチを弾丸が抜ける、その音のすさまじさは言いようがない。泥に潜り込み鼻だけを水面に出して息をする。


 戦場の体験は消えがたい。煙草、パイプをくゆらすと、かっての若き日々の事象がまざまざと蘇ってきた。この黒いパイプをとても大事にしている。ある人からもらったもので、自分のパイプ歴の始まりを意味するからである。学友は誰彼となく紙巻き煙草を吸っていて自分も10銭でチェリーを買っていた。親しかったKさんからもらったのは支那事変に応召せれる前だった。半年は辛くてもてあましたが、ある日忽然とうまみを会得した。Kさんの真意がわかり爾来いっそう身近なものになった。一つ一つのパイプに思いでがあるが、そのころの思想の弾圧、軍の台頭、御用学者の出現には失望した。学生の懐柔、刹那主義へ逃避、我が国の戦争は忠誠も批判も懐疑もすべて呑み込んで破壊に突き進んだ。南方の海に戦死したKさんは再び会うこともなく敗戦を迎えた。