ではなぜ、忍者=手裏剣のイメージが定着したのかというと、これはどうやら江戸時代に描かれた浮世絵に起因するらしい。手裏剣を携える忍者の姿が創作的に表現され、それが流布したことで「誤解」が浸透したわけだ。

 

 

 

手裏剣シュッシュ、シュッシュシュ♪ の赤影が悪い (・ω・`) 

いや別に悪くはないけど言ってみたかっただけ

 

さらに忍者が持つ刀は、一般的に四角い鍔の付いた直刀を指して「忍者刀」と呼ぶことが多い。しかし、こうした形状の刀が実在したのは事実でも、これが忍者専用に誂えられたという事実はない。
 現存する記録の中に、忍者が直刀を使っていたという根拠は希薄で、なかには「忍者は最後まで刀を抜くことはなかった」と説く研究者もいるほどだ。たしかに、人知れず情報収集を果たす隠密活動を任務とした忍者が、ひと目でそれとわかる刀を携えていたとは考えにくい。

 

私、一度だけそういう刀を目にしたことがある。長脇差ほどの刀身で身幅広く、まるで大型のタクティカルナイフだと思った。私が見た時には鍔も鞘も無いもので、最初に見た時には一瞬、古墳時代に東北の蝦夷が使っていた作業、狩猟、戦闘に耐える万能刀、蕨手刀(わらびてのかたな)かと思ったぐらいである。あれが忍者のものだったのかは定かではないが、ずいぶんと変わった刀があったものだなと印象強く残っている。

 

背中に刀を斜めに背負う、というのが忍者の定番スタイルだけど、あんなもので床下や天井裏のような狭いところを匍匐前進したら、ガチャガチャぶつかり回して、にぎやかなネズミだなと槍で串刺しにされるのがオチだと思う。それに私もいちど遊びで試したことがあるけれど、抜くにも戻すにもあれほど不便な位置はないと思う。

 

研究者の間では、有事に備えて帯刀したとしても、それは脇差程度の小さな刀であったとする説が根強く、武士と異なり敵前逃亡も厭わなかった忍者は、それすらも使う機会が少なかったと言われている。

 

そう考えると、風車はともかく、匕首(あいくち)と煙玉ぐらいしか使わない水戸黄門配下の風車の弥七(甲賀忍者)などは、地味に見えて割とリアルな忍者像、だったのかも知れない。

 

 

なるほど年季が違うのか (・ω・`) ← 特に言う必要もないけど言ってみた

 

ただし、伊賀や甲賀の農民は普段「クレ染め」と呼ばれる濃紺色の野良着を着用していたという。クレとは水田の周辺などで湧き出る油の浮いた赤茶色の液体で、クレ染めにはマムシよけの効果があったと信じられていた。
 忍者として任務にあたる際、そうした野良着にほっかむりの1つもすれば、我々が今日イメージする忍者の姿にかなり近いものになるだろう。

 

これはなんとなくわかる気がしますね。迷彩服の歴史について書いたものを読んだ時に、黒色のものよりも紺色のほうが夜間の隠密行動においては優れていた、というのがあった記憶がありますわ。

 

それにしても、ニンジャにせよ、サムライにせよ、今想像されているものってだいぶ創作物の影響を受けすぎたファンタジーなものなんですよね。(だから新興古武術みたいな連中ほどおかしなことばかり言ったりやったりしている)

 

忍び者もそうだったかも知れないけれど、武士などは刀を抜くというのは仕えるお家の名に関わる大事であって、使わないことを前提にふだんは柄を雨露から防ぐ柄袋をかぶせておくのが一般的だったわけですし。

 

ま、でも、そういうお堅いことを言ってしまうと創作物は面白くなくなっちゃうんだろうから、並行宇宙的なニンジャやサムライ像があるのもそれはそれでいいような気もします。

 

 

最後に11年前の懐メロ?でもどうぞ