【フルタチはどう生きるか。古舘伊知郎が釈迦コンシェルジュと共著 『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』7/16発売 株式会社PHP研究所】

https://newscast.jp/news/0410366

 

数ある苦しみの中で古舘氏が特に自覚しているのが、人を憎んだり羨んだり妬んだりする「怨憎会苦」。
古舘氏は、この苦しみから逃れるトレーニングを「怨憎会苦マンション」と呼び、自分の邪悪さがマンションのクローゼットに収まっている様子をイメージし、客観視することで憎しみや嫉みから発生する苦しみを少しずつ軽減するようにしています

 

分別も両極端もダメ! ほどほどがちょうどいい

釈迦が悟りを開いて初めて弟子に説法した教えが「中道」です。これは極端な考えは避け、歩み寄った中庸の道を行くという意味です。古舘氏は多様な選択が求められる現代において、この教えはAかBか決めずとも「ちょっといい加減でもいいんだよ」と言ってくれているようで惹かれると言います。

 

前置きすると私は坊主なんか生理的に大嫌いだし(言っちまった(*ノω・*)テヘ)仏教が絶対的な真理だとは微塵も思っていないし、正しく伝わっているとも思っていません。

 

人が何を信じるのも自由だとは思いますが、もしなんの疑いもなく、二千五百年前に宇宙の真理を見つけたブッダであるお釈迦さんの言葉には決して間違いはない、と信じてしまう人がいたとしたら、その人は…数万年粘土をこねる文化しか持てなかった縄文時代に世界に文明を伝播した「縄文文明」があったと信じて主張している人たちと何も変わるところがないと思っています。要するにカルト脳だってこと。

 

四苦八苦というのは、

生・老・病・死。それに

愛別離苦(愛するものと分かれる苦しみ)

怨憎会苦(憎むものと出会う苦しみ)

求不得苦(求めても得られない苦しみ)

五陰盛苦(自分を存在させる心と肉体があることの苦しみ)

 

を加えたものであるのは説明するまでもないけれど、これって釈迦というオッサンに言わせると、人間の力ではどうにもならないもの、この世のことわり、すなわち「法」なんですよね。

 

釈迦のオッサンがそれはどもならんよ、と言っているのにそれを邪悪だと思ったりクローゼットに押し込めて客観視する必要があるんでしょうかね。人にはどうすることもできないこの世のことわりをどうにかしようと抗おうとすればするほど、客観・俯瞰から遠ざかるんじゃないかと私には思えます。

 

むしろ、この世はそういうもんなんだよ、と、シレッと分析して各自そこからどうするか思考の起点を与えたのが釈迦というオッサンなんだと思いますよ。その起点に抗って(悪いものだと否定して)しまえば、その先の仏道修行なんてあるんでしょうかね。

 

ま、私は欲すら我が身の力とする仙人の系譜なので抹香くさい仏徒の小理屈なんざ何聞いても頭に入ってこないだけかも知れませんけどね。

 

 

ま、眉間にしわ寄せて難しいツラしてねぇで、とりあえず一杯やれや坊主ども。

 

酒も獣肉も女も錦も煙草(タバコは関係ないか(^^ゞ)もなーんも知らんと、痩せ我慢ばかりしているからイライラが募って人さまに怒鳴り散らすような説教しかできねぇこぢんまりした人間になっちまうんだぜぇ。