誰かに人生相談しようとも思わないし、誰かにされたとしても脊髄反射的に御免被りやっしゃと逃げるに違いない私…

 

 

 また、子どもや夫を亡くした女性に、機会あるごとにともどもに涙して励ます日蓮もいます。病気がちで子連れで再婚し、夫の足を引っ張っているのではないかと自己嫌悪に陥りがちな女性を励ます言葉の温かさには、思わず涙を催してしまうほどです。

 

一緒に泣いちゃうあたりが私にはよくわからない。

 

地獄のような現場で災害対応の仕事をする人間には熱い心で被災者に寄り添って涙するような間抜けは要らないと書いたことがあるけれど、たしかベートーヴェンが、良い曲やその演奏を聞いて涙が出るような人は音楽家には向かない、と言っていたというのを何かで読んだ記憶がある。実際、なんらかの分野に身を置いて真摯に道を見出し究めんとする者には、いちいち何かに感涙している余裕などないと思う。人生は想像以上に短いのだから…。

 

かなり古い時代の経典である法句経の注釈には有名なキサー・ゴータミーの話が出てくるのだけれど、わが子を失って悲しみに暮れる母親に対する態度は決して一緒に泣いてみせるなどというべとべとした安っぽい優しさでは無かった。

 

 

その人の悲しみは世界中の誰よりも深い悲しみであり、その人の痛みは世界中の誰よりも苦しい痛みなのだと思う。

 

だからこそ、それを誰かが癒やしてやることなど決してできはしないと私には思える。

 

キサー・ゴータミーの逸話において釈迦のオッサンのしたことは、この世界はそういうものなんだよ、という、物事の道理(法)を示してみせたに過ぎないし、何を教えたわけでもない。

 

初期の経典に見るいかにも人間くさい哲学者・釈迦の問答というのはいつもそんなふうに、今ふうかつ悪い言い方をすれば「投げっぱ」であり、そこから先は、それを聞いた本人が考え、自分なりの解を見出す以外にないのだと思う。

 

なるほどそれによって解を見出し(その人なりに)救われた者もいるに違いない。

 

だが、悪いことにそのへんを理解せず、ワシも愚かな衆生を救うたるわ、と思い立った連中がごちゃごちゃわいて、誰彼かまわず読みおぼえた経典を引用しつつ「識者」を気取って説教くらわすのもまた世の常である。

 

そういった折伏(日蓮宗だからあえてこの言葉を使ってやろう)趣味のある人たちというのは、すべての人にそれぞれに開花すべき仏性があることを忘れて、アホなおどれらに賢いワシがみっちり教えたるわ、みたいな態度だから嫌われるのである。

 

もちろんそんなチンチンに心を沸きたたせた人たちの、湯葉のようにぺらぺらなテメー限定の人生哲学など聞いたところで誰も救われるわけがない。