ま、仏教の言葉、というよりは翻訳された当時の中国語に基づく造語。ですよね。

 

現在、中華資本によって日本のお寺を観光資源として買い漁ろうという動きがあるのだけれど、そらぁ死んぢまってもやれ戒名だ十回忌だといって、檀家にたかって銭をむしり取ること以外考えていない日本仏教というのはすでに宗教を捨てた中国人から見れば美味しそうな商売にしか見えないんだと思いますわ。死者からまで金をむしり取れる国なんて地上にそうそうないものね。我々日本人が文化だの歴史だの伝統だのと言って触れてはいけないものと思い込み、また決して触れようとしてこなかった日本仏教界の「業」ともいうべき今のありようが、ごりごりに現実的な中国の商売人たちには魅力的な「利益」を生み出す産業としか認識できなかったってことでしょ。そしてその認識はきわめて正しい。

 

そもそも仏教って真理なんですかね?

 

私は必読とされているような経典には一通り目を通してみたけれど、あまりにも矛盾が多すぎてそこに哲学的な魅力を感じなかったんですよね。なるほどあちこち別な経典から断片的に言葉を集めてみたり、それを勝手にこじつけ解釈してみればそれなりのロジックが構築されているようではあるけれど、断片をつなぎ合わせて得られるその一見完璧そうなロジックを見ていると気づくんですよね…あれ?これ、ブッダがあえてそれを語ることには意味がないとしたとされる「無記」の部分と完全に矛盾しているよね、と。

 

2500年前に真理を見出して実践して目覚めた人がいたと多くの仏僧たちが信じていて、そこへ近づこうとして2500年経ってもなお誰一人目覚めたためしがないのに、なぜまだそこにすがろうとするのか私にはサッパリ理解できません。

 

仏教は宗教じゃなくて哲学なんだよぉ、と言いたがる人もよく見ましたが、どこかにある「かつて誰かが見つけ今は失われた真理」というものを釈迦に偶像化して信じている時点でその人は哲学やってるんじゃなくて宗教どっぷりなんだと思いますよ。

 

そもそも悟りのようなものはあったんでしょうかね?

 

科学の徒なら、誰でもわかりそうなことだと思うんですが、難攻不落の問題みたいなものがどの分野にも必ずあって、その中には問題自体に問題があって解に至らないことが証明されたものも幾つかあります。問題を解こうとすることはもちろん大事ですが、同時に、その問いは正しいのか?という意識を失ってはいけない気がするんですよね。その根源的な批判精神がない者は科学(哲学を含む)をする者ではなく、宗教をする者なんだと私には思えます。

 

釈迦の教えとは何だったのか、について理路整然と語り、また記したものについては飽きるほど見てきた(そしてガッカリしてきた)けれど、一方で、釈迦の教えはほんとうに正しいものだったのか、について理路整然と語り、また記したものはひとつも見た記憶がありません。

 

本当だとされているそれは本当なのかというクリティカルシンキングに基づく論議がなされていないあたりで、私に言わせりゃ現行仏教などは宗教以外の何ものでもないのですよ。そんなものに哲学と同等の権威を与えることはきわめて危険な考え方であると思っています。

 

根源的批判精神を欠く宗教的(=隷属的)な人間の見分け方ってじつに簡単なんですよ。例えばSNSには、流行り言葉を使うならメタ認知的に多角的にものごとを見て、ちょっと毛色の違う、しかし鋭いことを言い出す人が現れるのを見るや、「逆張りするなぁ」と騒ぎ出す人たちがいるでしょ。だってあいつの言うことはボクちんの知ってることや思っているや信じていることと違うんだもん、というあたりにしか怒りのツボがない頭の悪い彼らの無駄に小うるさい、しかし強烈な信念こそが、宗教と信仰のタネなんですわ。こういう人たちは自分じゃ知能が高いようなことをSNSでほのめかしたりしているばかりか、毎日のように人の頭を悪く言ってはばからない人たちだけれど、多角的視点を持てない彼らはIQテストによくある隠れたブロックの数を数えるブロックカウントでもたついた人たちであろうから知能が高いわけはないんですよ。

 

なお、私は仏教というのは、菩提樹の根本によりかかって 「あゝ。なんか難行苦行とかもうめんどくせぇわ。マジ死ぬわコレ。やめだ、やめ。腹減ったなー」 と修行者らしからぬスッキリ晴れ晴れニコニコとした顔でいたゴータマを見た地元領主スジャータ婦人一行が、あの人こそ「目覚めた人」であるに違いない、とヨーグルト食わしてうやうやしく礼拝したあたりから、話がおかしくなっていったんだろうなという気がします。