“True love is born from understanding.”
「真実の愛は理解することから生まれる」
ブッダ(古代インドの宗教家)

 

“Happiness does not depend on what you have or who you are. It solely relies on what you think.”
「幸せはその人が持っているものやその人の肩書で決まるのではない。幸せはひとえにその人が思うことで決まるのである」
ブッダ(古代インドの宗教家)

 

仏典とされているものは、じつに膨大な数があって、その様々なものを読み進めていると、そのどうしようもない論理矛盾の中で一つだけ気づくことがある。

 

…人間ってのはテメーに都合のいいようにしか物事を解釈しないんだな。ということ。

 

俺さまがくたばったら燃やして川に流してお前らは俺のことを拝んだりせず自灯明・法灯明に励んどけや、と言われたのに、師の言う通りにせず弟子たちが泣きながら骨を拾っていたあたりで、仏法というのは釈迦が命を終えると同時に完全に絶伝したのだと私は思っている。そしていまだに釈迦の像を彫り拝んでいるのが現代仏教だ。

 

なお、成立年代が古いとされる経典ほど「愛」や「幸福」について釈迦が肯定的に語っているものがない。

 

///////


愛する者と会うな。愛せないものとも会うな。


愛するものと会えないことは苦である。
愛せないものと会うこともまた苦である。


それゆえ愛するものを持ってはいけない。
愛するものを失うことは実に不幸である。

 

愛するものも 愛せないものも持たない。
そういう人には枷(かせ)となるものがない。

 

愛から苦悩が生まれ怖れと不安が生まれる。
愛を超越した人だけが苦悩しない。

 

そういう人のどこに怖れがあるだろうか。
 

(法句経「愛するもの」)
 

/////////

 

じつに冷酷に愛という感情を切り捨てているが、私にはこれが一番しっくりくる。そんなふうに愛を捨てない限り「犀の角のごとくただ独りゆけ」という有名な言葉には繋がらないだろう。

 

釈迦の遺した核となる部分のロジックはひどく強固なものなのに、そこに独自解釈を造語という形で次から次へと継ぎ足して違法建築のバラック小屋のように積み上げたのが今に残る仏教であると言っていい。

 

日本の現代仏教においていまだに宗派問答のようなものはあり、やれ真言宗だ、浄土宗だ、日蓮宗だなどとやっているけれど、そういったものはいわば「宗派愛」でしかなく、その強い愛から生ずるものは間違いなく「苦」でしかない。そんな「苦」まっしぐらな世界を眉間にしわ寄せて突っ走っている坊主なんぞに上から説教されたところで、まったく心に響くわけがない。

 

仏教に限らず、宗教、哲学、思想への強い信仰や信念のごときものは、すべからく依存心、すなわち愛そのものであり、そこを離れない限りその人がこの世界をありのままに観ることは出来ないだろうと私には思える。

 

私は上から物言うのを好む偉そうな坊主という生き物が大嫌いだが、人のために啓蒙しよう、衆生のために尽くそう、それが私のお役目だ。などというテメー勝手な思い上がった価値観もまた自己愛という愛であり依存心から来るものでしか無いと思っている。

 

もしそういった、お前のためにキツイこと言ってやんよ!的な啓蒙・折伏癖のある人からそれを取り上げてしまえば、口からおしゃぶりを引っこ抜かれた赤ちゃんのように彼らは泣き叫ぶことしかできまい。愛にしがみつくことで彼らが得たものは畢竟、それを失うことへの恐れでしかなかったということだ。そんな惰弱な者がなぜ人にものを説ける。

 

彼らは熟すのを待たぬまま腐り落ちてしまった、りんごの実のひとつでしかない。