妻は自分が自慢をしないせいか、自慢をする人を何よりも嫌った。
 妻の自慢嫌いは、どうも、ふつうに言う「自慢はよくない」とは違っていたような気がする。
 一般には、自慢がよくないというのは、「相手を不快にしないように」「謙虚でいるのが望ましい」「仲良くするためには、相手を立てる必要があるのであって、自分が目立つのはよくない」という論理だと思う。
 だが、妻は、相手を不快にするようなことも平気で言ったし、謙虚ではなくかなり自己主張が強かったし、仲良くするために言いたいことを我慢することもなかった。
 自慢をしないというのは、妻にとって仲良くするための手段ではなかった。「自分は並みの人間ではない、優れた人間だ。それをわかってくれ」と考えること自体が許せなかったのだと思う。
 もちろん、突出した能力を持っているのであれば、それは心から認める。だが、それほどではないのに、あたかも力があるように錯覚し、それを人前で口にしようとする、そのような態度を妻は嫌った。

 

たった一つの例で断定するわけではないが、自分を特別と考え、自慢をして生きた人物は90歳近くになっても、死の宣告に狼狽する。特別な自分がいなくなることを受け入れられない。

 それに対して、自分を特別と考えず、自慢をしない人間は、自分を平凡な生物と考えているので、死の宣告にも平然としていられる。このことは、かなり普遍的なことだろうと思う。
 

勘違いする人もいるかも知れないので書いておくが、上の記事はもちろん、これを書いた樋口氏の亡き奥方の話であって、石原慎太郎の妻のことではない。

 

なんだか自分がよく指摘された──その指摘は、お前もっと言葉を選んで慎重に生きろよという、ほぼ要らぬ心配のようなものであった気がするが──あたりとかぶっていて他人事とは思えないが、そんなふうにシレッと生きている人というのは、死ぬ時もシレッと逝けるんじゃないかと思えてくる。

 

なお、会津の飯盛山で白虎隊の剣舞を見ながら、その歌詞「紅顔可憐の少年がー♪」をもじって私のことを「厚顔苛烈の中年がー♪」などとうまいこと替え歌にしてやがったのは今もつきあいのある当時の私の上役だが、たぶん褒め言葉のつもりだったのだろうと勝手に解釈している。