直前の記事中にあった表現について 「あなたは真善美をどうして俗っぽいものと言えるのか」 というメッセージをいただきました。(ブログを拝見したところある脳科学者さんのシンパみたいな記事が多かったようです。その方がXのトップに真善美がどうのと書いておられるのでシンパとしては思うところがあるのでしょう)

 

私が真善美というものをなぜ白眼視するかといえば …それが自然界における多様性とはまったくと言っていいほど無縁なものだから、ですよ。

 

なるほど人間のこぢんまりとしたコミュニティを維持するルール作りや、各個人が精神的安寧を得るためには必要なものかも知れないけれど、自然界、とくに生物界ではそうではない。

 

生物界を見てどうでしょう。多くの生き物は捕食するために、また捕食者から逃れるために擬態という手段を用いています。これは真ではなく偽そのものですが、それは悪いことなのでしょうか。醜いふるまいなのでしょうか。

 

人間の目から見ればかわいらしいだけのパンダのツートンカラーにさえきちんとした意味があります。それを可愛いと思うのは人間の勝手な都合でパンダの与り知らぬこと。少なくとも人間を喜ばせるために彼らはそう進化したわけではないですよね。

 

 

相手を脅すための孔雀の羽も人間からみれば美しい、とされてしまう。こんなふうに人間は自然の姿を自分の手前勝手な都合で解釈しがちです。

 

およそ真善美というのは人間の間でしか意味をなさない哲学的な命題であって、まず眼の前の現実ありきの自然科学の徒がその色眼鏡を通して世界を見てしまうことは、きわめて危険なことだと私には思えます。

 

なお「俗」の字源が、人の寄せ集まるところ(谷)、すなわち集落、世間、人間社会を意味するものであり、その人間社会でしか通じないものが真善美という哲学的な命題なのだから、それを「俗っぽい」と言ってなにがおかしいのか理解に苦しみます。