こんなのあった

 

 

 

 

くだらないと思いますね。以前「ら抜き言葉」についても書いたことがあるけれど、言葉って変わってゆくものなんですよ。そしてその変化が見ていて面白い。

 

 

夏目漱石とその門下なんぞはずいぶん当て字や造語をしていますが、今では当たり前のように使われていたりもします。

 

言葉って文化なんですよ。万古不易の文化なんて今までも無かったしこれからもあるわけないでしょ。

 

そんな窮屈な世界おもしろくもなんともありませんわ。

 

 

 

ちっぽけな外の情報にイライラするのは認知症の初期症状だと思うし、変わらぬ世界を求めるってのは、昔は良かった、しか言えないお年寄りの感覚としか思えないんですがね。

 

そう言えば、例の万年助教授なんぞはこの「ら抜き警察」批判を書いたあたりから絡んで来やがったんだけど、「ら抜き」以前に人さまの論文パクってバレてりゃ世話ないと思いますわ。ばっかじゃねーのと。

 

そんな遊び心のない半分ぼけてる人らが変にインテリ気取ってもの言いたがる今の世の中。

 

うんざりする。

 

 

<追記>

 

世の中には博識な人というのはいるものだけど、博識な人が必ずしも優秀な研究者になれるかといえばそうでもない。

 

博識な人というのはテキストに書いてあるロジックを通してこの世界を見ているだけで、この世界で、眼の前で、現実的に起きていることを見たとしても、それが自分が(紙の上で)学んだものとは違うからといって受け入れようとしないものである。だから発展性がない。

 

少なくともコペルニクス的転回という芸当は彼らには期待すべくもない。彼らの知性などいつでも人工知能に置き換えられる程度のものでしかない。要するにそういう人たちはどれほど識者を気取っても研究者になることができない…事務処理屋でしかないのである。