故人の姿に似せたAIヒューマンと対話できるようにするサービス「リメモリー(Re;memory)」を提供するディープブレインAIのチャン・セヨン代表は次のような見解を示す。
「亡くなった親に似たAIが登場する瞬間、現場は涙の海になる。残された人々の喪失感を少しでも和らげてあげられるという点で意義がある。会社側はAIヒューマンを生成するための技術を提供するだけであり、映像は遺族が自ら製作する。故人のデータに対する権利と責任は遺族にある。会社レベルでも顧客のデータを他の目的で活用したり配布できないように約款を用意し、施行している」
日本人の感性からすればザワッと来る気持ち悪い話ではあるけれど、かの国は巫堂文化の国なのだから、そういう動きがあったとしても驚かない。
かの国の新興宗教、とくにキリスト教をひん曲げた独自の新興宗教(日本の政治家たちを毒した教団も含め)を見てみたまえ。どれもほぼ間違いなく、「先祖の霊」という本来のキリスト教には見られないものが当たり前のように語られている。
日本の場合、特に神道では死は穢(けが)れ、であった。ケガレという言葉の語源はいろいろあるみたいだが、江戸時代の国学では「気(け)枯れ」だったのではないかと解釈されている。つまり生(気)を失った人や生きものはもはや物質でしかない、それは土(うぶすな)から生まれ土へ還るべきもので、人はその天然自然のことわりに抗うべきではない、というのが日本の最も古い生死観だったのではないかというのである。
面白いことにこういった死者を遠ざける生死観というのは世界的に見て割と南方の湿潤な気候に多く、北方や乾燥地帯では割と少ない。たちまち腐ってしまう亡骸を埋めるなり焼くなりすぐに処理する必要があったか、あるいは低温で腐りにくくまたは乾燥して形を保ってしまうか、その違いによって死者に対する考え方も違ったのかも知れない。
韓国人のルーツは我々日本人とは違って北極圏のエベンキにあったのだから、日本人とは生死観や霊魂観が違っても特に不思議ではないように思う。
もちろん私はそういうものが大嫌いだが。