べつに悪くいうつもりはないのでクソコメ入れんな落ち着け美輪信者。
私が言うところの「信仰」とは、ある特定の宗教を信じることとは違います。人は誰でも、自分のなかに善なるものと悪なるものの両方を持っています。悪ではなく、自分の内なる善の部分を掘り起こすよう努力する。それが、私が考える「信仰」です。
信仰を持てば、自分が悪いことをしそうになったとき、もうひとりの自分がたしなめてくれます。また、生きていれば、人を憎んだり、意趣返ししたくなったりすることもあるでしょう。
そういうときも、「いけない、いけない」と軌道修正できるはず。そうやって己の精神を神や仏に近づけるよう高めていく作業を繰り返すことが、修行であり、信仰だと思います。
ああそうか。ようやく美輪氏の宗教観、というよりはオカルト感が理解できた気がする。
そして記事に添付されている、この方の書いた「信仰」という書を見て思った…。
「信」がやけに力強くて、それと比べると「仰」がなんとも頼りない印象。「仰」についてはぶっちゃけどうでもいいオマケみたいな感じに見える。
1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「—が厚い」「守護神として—する」
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への—」「ブランド—」
美輪氏の信仰というのは、2、のほうなんだと思う。
つまるところは強烈な、…自分信仰。
このかたの宗教観というのは「自分に対する絶対的な自『信』」から生まれるものなのだと改めて気づいた。
美輪氏はたびたび科学というものを侮辱的に挑発してきたけれど、科学の徒というのはまずは現実をありのままに直観し観察するところから始める。その観察において最も重要なのは私心を取り除くことだ。きっとこうだ、こうに違いない、そのはずだ、などという強い信念は科学者にとっては間違いなく停滞をもたらす致命的な「毒」である。
疑うことなしに真実へ至る道はない。自分の判断すら一度は疑う。それが科学。
そう考えればその真逆を行くこの信念の人が科学と相容れるわけがない。
だからと言って私はそういう自分とは相容れない世界観や信念を持つ「自分信仰」の人を責めようとは思わない。ましてあざ笑ったりしない。思うのも感じるのも自由で勝手なことで好きにすればいいと思うし知ったことでもない。だいたいそういうものはその人の手からもぎ取れるようなものでもないだろう。
ただ、そういう人たちが侮辱的にこちら(科学)側を挑発するのであれば、降りかかる火の粉を払うように全力を持ってお相手する以外にはないとは思ってゐる。
この世界では否応なしに諍いは起きるものだしそれによってクラスタが形成されるのは自然なことである。私は自分と自分の属するクラスタを守らんとして戦うにあたり、善であろうと試みたことが一度もない。科学の徒として美醜善悪の色眼鏡を以て論じ得ない天然自然のことわりに従うがゆえである。