亡くなってたのか。

 

 

ついこないだの記事でこの方が津波被災地を撮った写真集「ATOKATA」について、見た瞬間にブチ切れそうになったことを書きましたが、私は「作品」についてあれこれ評することはしても「人物」について誹謗中傷することはしません。

 

彼はなによりもまず天才であり、いち早くカメラをデジタルにシフトした先駆者であり、多くの後進に影響を与えた偉大な作家でした。

 

彼、篠山紀信については荒木経惟(アラーキー)との論争が強く印象に残っています。

 

 

『センチメンタルな旅・冬の旅』
1990年1月、陽子が子宮肉腫のため他界するまでの数ヶ月彼女を撮り続け、1991年2月新潮社から「センチメンタルな旅・冬の旅」ISBN 4103800011として出版される。
前半を「センチメンタルな旅」から再編集し、後半は「冬の旅」として彼女を失うまでの心の旅を描いている。
この写真集の出版に合わせて、荒木と篠山紀信が対談を行い、新潮社の雑誌「波」(1991年2月発行)に掲載された。この中で、妻の死に顔を写真に撮り、それを発表した行為が篠山紀信にとって許すことができず、その後しばらくのあいだ絶交状態が続いた。

 

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荒木

「死は一番真実。前はどんなふうに見てもいいというつくり方だったけど今回はそれ以外の見方はさせない」


篠山

「そんな不遜な写真集なんか僕は見たくないね。あなたの写真は一面的じゃないというか、多様性を孕んでいるからこそ面白かったんじゃないですか。本当のこというとこれは最悪だと思うよ。荒木ほどのやつがこれをやっちゃったのはどうしてかと思ったね」
 

荒木

「一回妻の死に出会えばそうなる」
 

篠山

「ならないよ。女房が死んだ奴なんていっぱいいるよ。」
 

荒木

「でも何かを出した奴はいない」
 

篠山

「そんなのも出さなくていいんだよ。これはやばいですよ、はっきりいって」
 

荒木

「いいや最高傑作だね。見てるとミサ曲が聞こえてくるでしょう」
 

篠山

「だからつまらないんじゃない。ミサ曲が聞こえてくる写真集なんて誰が見たいと思うの。あなたの妻の死なんて、はっきりいってしまえば他人には関係ないよ」
 

荒木

「だからこれは俺自身のためのものなの。なんといっても第一の読者というのは自分なんだから…」

 

(新潮社月刊誌「波」1991年2月)

 

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私に言わせれば誰かの故郷であったであろう津波被災地の爪痕を撮った「ATOKATA」はいわば人さまの家族の遺影を作品にして売るに等しい許しがたい行為にしか見えなかったんですよ。そこに被災者のご遺体が転がっていたのをこの目で見てしまっていたわけですし。彼が撮影に入ったのは発災からだいぶ経ってからだったけどあの地獄のような風景を「美しい」と言ってのけたこの作品について私は許せなかったんですよね。

 

でも、それはあくまで私がそう思っただけのことであって、作家自身があの場で何を思ってどういう思いで写真集を出したかは知る由もないんですが…。私が作品について語ることはあっても作家について語ることをしないのはそんな理由です。

 
(写真は手前味噌。原発事故後外出を控えるように指示されていた頃の福島県JR郡山駅前の閑散とした繁華街。機材は富士フイルム KLASSE・S 38mm F2.8 Super-EBC Fujinon)