私の後輩の研究者は今まさにレトルト食いながら現場で指揮を執っていると思いますが、彼は阪神淡路大震災に被災した孤児なんですよね。施設で育ち刻苦勉励の末に災害分野の研究者となり今や二児の父親でもあるんですが、あの日が来るとどう我慢しても涙が止まらなくなり、一人書斎にこもってひとしきり慟哭することを私に恥ずかしげに笑いながら明かしてくれたものです。

 

阪神淡路大震災のときに私は国内のこととはいえどこか遠い世界のこと、他人事のように思えてしまっていました。災禍が自分の身に降りかかるまではあまりピンと来ないものなのかも知れませんが、私もそんな程度の人間だったということなんでしょうね。でも人間とは押し並べてそんなものであろうから私は今なにも感じない人たちに対して不謹慎だなどとは思わないし、かつて自分がそうだったことを思えば当然責める権利もありません。

 

阪神淡路大震災からもう28年目となりますが、いまだに心に傷を抱えながら生きている人たちがいます。

 

東日本大震災もすでに一昔前のことになってしまったが、いまだに傷跡は生々しいまま。

 

 

東日本大震災の災害関連死は福島県だけでも2335名にのぼる。これは発災による直接死の1.7倍の数字です。

 

 

 

災害関連の仕事で「被災者の心のケア」というものが重要視されてきたのはここ最近のことだけれど、私は「心」の専門家じゃないから何もできないし、できないことがもどかしい。自分の無力さに腹が立つ。

 

結局、災害による多くの人の生き死にを見ていまだ心のどこかに「痛み」を感じている私が知りたいのは…自分を含め…人間なのかも知れません。

 

いかなる学問も人間から切り離しては成り立たず、その最終目標は人間を知ることなんじゃないかと思っています。それは船を持たぬ者が遠い水平線の彼方に思いを馳せるがごときものかも知れませんが、たぶん満身創痍の私を生かし続けているのはその思いだけなんだと思いますわ。