私はこのかたを日本人が誇れる数少ない日本人の一人だったと思っています。

 

 

「『自分の身は針でつつかれても飛び上がるが、他人の体は槍で突いても平気』という人々が急増している」

 

神の玉座第七天国アラボトを守る親衛隊長であり煉獄の主でもある大鎌を持った智天使カシエルが持つ道具は真実を写す鏡、また東洋では地蔵菩薩でもある閻魔大王の道具は浄玻璃の鏡で、それらは人の死後にその人の生前してきた罪を映すものだという伝承がある。

 

宗教の違いに関わらず地獄と鏡が関連付けられているのは、人間がいかに自分のしていることに気づかないか、人間という生き物にとって自分の姿を正しく観察することがいかに難しいことか、自分の姿を見つめることがいかに恐ろしいことであるか、の寓話だと思う。


動物の知性を評価するもの中に「抽象化」と「鏡像認知」というものがある。

 

禅には「脚下照顧」という言葉があり、我が国には古来「人の振り見て我が振り直せ」という名言があるが、これらの言葉は二つの認知能力を併せ持っていないと出来るものではない。

 

それがないとまさしく「針でつつかれても飛び上がるが、他人の体は槍で突いても平気」という人間になるのだと思う。そういった人はSNS界隈にはザラにいて盆暮れ正月関係なしによくもまぁと思うほど罵詈雑言の応酬に明け暮れている。要するにそういった人は、人間として以前に、動物として …パカなのである。

 

そして知識を咀嚼し消化しておのれの血肉とすることが出来ず、無駄に贅肉として溜め込むことしかできなかったひどいパカほどおのれの賢さを信じて疑わない。

 

例えば日本人について語るとき「和を以て貴しとなす」平和を愛する民族であると言う人がいる。これは私に言わせればとんだ大間違いだ。その言葉が憲法十七条に明文化された時代、豪族たちはまだ「日本国」という概念を持てず、血で血を洗う小競り合いに明け暮れていた。

 

公が法を定めるのは何のためか、あってはならないことが平然と行われているからこそ法で人を縛るのである。もし日本人が憲法十七条の「和を以て貴しとなす」の条文にあるように、「互いによく議論を尽くして暴力的解決を避ける」ほど民度の高い平和的な民族であったならそれを明文化する必要などどこにもなかったのである。

 

我々日本人に必要なのはただ淡々とこの国と自分自身の在り方を見つめ、過ちがあればそれを正す勇気を持つことでしかないように私には思える。

 

先に洋の東西を問わず宗教的な地獄では鏡に写った自分自身を見つめることを要求されるという伝承について触れたが、これは個々の日本人のみならず全人類共通の課題であると言えるのかも知れない。