この動画で茂木氏がおっしゃっておられるのは宮本武蔵の五輪書のうち、水の巻のくだりだったと記憶していたけれど、調べてみたらその通りでしたね。ナイス記憶力自画自賛♪

 

原文と現代語訳を併記したものがあったので参考までにどうぞ。

 

 

まず(何よりも)、太刀を手に取っては、どのようにしてでも敵を切るのだ、という心持である。もし(仮に)、敵の切ってくる太刀を、受ける、張る、当る、粘る、触る、などと云うことがあっても、それはすべて、敵を切るためのものだ、と心得るべきである。
 受けると思い、張ると思い、当ると思い、粘ると思い、触ると思うと、そのことによって、切ることが不十分になるであろう。何ごとも敵を切るためだと思うことが肝要である。よくよく吟味すべし。
 兵法が大きい(大分の兵法の)ばあい、「人数立て」〔兵員配置〕というのも、搆えである。すべては合戦に勝つためのものである。
 (どんなばあいでも)居付くということはよくない。よくよく工夫すべし。

 

 

宮本武蔵の五輪書は、こんなふうにまず本質(刀を手にするのは相手を斬るため以外の何物でもないということ)をズバッと書いて、そのあとにそのために必要な最低限必要な小手先のうんちくを記してゆくものであって、そういう点で教育者の書いた指導書としては名文だと思っています。

 

巷の指導者を見てみればいい。客を集めるためにちまっとした技やちゃんからおかしい哲学が先にあって、本質は道場の隅の物入れでホコリを被っているのが普通ですわ。いつになったら本質に触れさせてもらえるの?というぐらいもったいぶって教えない。それにくらべて宮本武蔵の五輪書の素晴らしさは、「刀?人を斬ってころす以外にどんな使い道があるの?」という点でシンプルであり、本質的です。道場で哲学髭を生やしたオッサンみたいにまずは「心技体」が必要だなんてことは決して言わない。

 

なお、私が五輪の書を初めて手にとって読んだのは、もう撃剣の試合もしなくていいし、勝ち(正直に言えばそれは快感以外の何物でもない)を求めなくてもいいや、と思ったころ、要するに剣士として充実してピークを過ぎて「枯れ」はじめたころです。もし剣客として未熟なうちに五輪書に触れてしまっていれば、案外、五輪書の本質ではなくこまごまとした小技やウンチクのほうに心が「居着いて」伸びなかったかも知れないとも思うのですよね。

 

たとえば剣道の指導者でも、お前は小手が得意だからそれを活かせ、とか、お前は力より速さが売りだからそれを活かせ、なんて知ったふうなことを言って変な教え方をして、必ずやあるレベルで頭打ちして伸び悩む剣士を育て上げる者がいるものですが、それもけっきょくそんなレベルに「居着かせる」ことでしか無いんだと思っています。

 

私の指導は単純ですよ。私が育てたいのはちまちました小手打ち名人でもなければ、神速の切り裂き魔でもない。真剣ならば正しく敵に致命傷を与えられる剣士、それだけです。そこが大事な本質であって、あとのことはどうでもいい。

 

心技体なんてものはとことん勝ち進める者の内わずかに知的なものにしか得られるもんじゃないのが現実であるのをよく知っています。その証拠に武芸なんてやってるのにろくなのいないでしょ。半分以上チンパン以下ですわ。そのろくでもない人間の間で勝って生き残らせるために、私は己のこだわりに居着いてしまうような頭の硬いダメな剣士を育てるような無責任な仕事をする気がしませんね。