良記事。

 

 

冒頭にも触れたとおり、「育ちのよさは後天的に身につけられる」、つまり振る舞いは変えられるという前向きなメッセ―ジは感じます(育ちのよさを手に入れられるという斬新なパラダイムシフト! に対するツッコミは一旦置いておいて)。ですが、古い言葉で言うならば「身分制度」を彷彿とさせるような「育ち」という言葉に、拒否反応を示す人が少なくなかったのかもしれません。

 

特定の層を排除して(貶めて)自分は特別だと思われたい、上位の属性にいたいという気持ち。"排他的"な"選民意識"が働くようなワードを持ってきて不安を煽り、社会を分断する。「育ちのよさ」という言葉は、まさにそんなワードではないでしょうか。

 

現代社会においてはそういう「覆しがたい体制と階級」がすでに滅びたものであるがゆえに、そういうものにシレっとなりすましたい人間が増えたんじゃないですかね?

 

でも今の社会は長い時間をかけて多くの血と涙を流しながら、そういう悪習を滅して来たんですよ。先人たちから受け継ぐべき志があるとすれば、そこにしか無いんじゃないですかね。それに反するもの(こういった「マナー」や「育ち」による階級の創造)は、日本人としてマナーがなっちゃない、ということなんじゃないですか?

 

たとえば私の曽祖父の教え子の一人であった天皇裕仁は、敗戦後の人間宣言と呼ばれるものの中で自らの神性を否定していますが、今の令和の世にあってなお、天皇を以て現人神たらしめんと画策する者たち皇室まわりに限らず大勢います。

 

そしてそういう者たちに限って自らが「やんごとなき側」にいるようなつもりになって、本来なら自分と同じ立場の人たちをなぜか冷たく突き放し見下している。そういうのは私に言わせれば大御心を推し量るという万死に値する不敬をしたという以前に、日本人として重大なマナー違反をしている滑稽な連中だと思わずにはいられませんね。

 

マナーとはあくまで他者を思いやる気持ちであり、その目的が自分をよく見せたい、という風に自分にベクトルが向いてしまった瞬間、全く別のものになってしまうのではないかということです。

 

他者を貶めることで自分を差別化して鼻高々にふんぞりかえっている姿というのは、どう考えても下品であるしマナー違反だと思いますね。

 

私は自身が地球を丸く歩いてきた経験上、世界中どこでも通ずるマナーがあるとすれば、それは「至誠」以外にないと思っています。カタコトでも身振り手振りでも、細かい作法を知らなくとも、単に性格が不器用であっても、その人が至誠の人である限り、誰もその人をとがめたりはしませんよ。

 

ドラマ『やんごとなき一族』に登場する上流階級の人々は、迷いなくガンガン人を「育ち」で判断するキャラクターとして描かれていますが、本当の意味で育ちのいい人はそもそも他人を育ちで判断しない、と信じたいものです。

 

このドラマの原作は漫画なので強く脚色されてしまうのは仕方ないのかも知れないけれど、話を聞けばびっくりするような旧家の人たちって自分からは語らないし、自慢したりましてや人を見下したりもしないもんですよ。むしろ自分が少し毛色が違うことを承知していて周りに失礼のないふるまいをしようとするぐらいで、見ていて気の毒になりますわ。

 

 

なお、私が曽祖父の話をするのは、私という人間が、戦国時代に鳥居忠政公がぜひ直臣にと招いた遠い先祖さんを除けば、その後はヒーじーちゃんぐらいしか立派な人が出てこなかったごくごくフツーの家の、育ちのごく悪いやつだからですよ (;´∀`)

 

ところで東京で学生やってた頃、ビーチサンダルで通ってたのは育ちが悪くてマナー違反なんだろうか。ガラスの破片で切れる海岸や、害虫に刺される野山と違って、アスファルトしかない都会こそがビーチサンダル履きにとって天国だと思うのだけど。(身につけるものがどーでもいい人)