金持ちインフルエンサーのごとき人々が絶賛していたアドラー心理学。

いまや語る人をほとんど見ない。

 

アドラー心理学でもっとも曲解、あるいは誤解、どころか理解されるに至らなかったのが「共同体感覚」だと思う。

 

その証拠にアドラーを熱弁した多くの人々が、「ばか」「底辺」「貧民」そういう言葉を用いて社会に敵対していた。これすなわち社会貢献どころか社会、あるいは人の輪の内にさえ入れてもらえない惨めで意固地な人間であることを自ら証明している。

 

アドラーはもともと個人心理学と呼ばれるようなごく内向きの「治療法」である。新興宗教団体のサクラがするように、その効果を外へ発信するたぐいのものではない。ところがアドラー「信者」たちは、最もアドラー心理学的でない行為、すなわちSNS上において、アドラーという錦の御旗を立てて「トラウマなんて無い」「社会貢献せよ」「ぜんぶお前のせい」とお題目を唱えつつ、太鼓叩いて折伏大行進してしまった。

 

言うまでもなく折伏というのは正義(独善)の鉄槌を以て人を教え正すという傲慢な思考と手法である。社会貢献どころか他者を害するものでしかない。彼らがなぜそういう方向へ走ったかと言えば、彼ら自身がアドラー心理学の最も根本的な問題、「承認欲求」を解決できなかったから、というほかはない。

 

アドラー心理学については、自灯明・法灯明を示した仏教との類似点を指摘されているが、私もそう感じている。釈迦が菩提樹の下で悟りを得たとき、これは人に教えても仕方ないと思ったらしいが、それは「教え」が誰も救わないことを理解していたからに他ならないと思う。覚醒、解放、救い、といったものは個々が解決すべき問題なのだろう。

 

アドラー心理学もまた、釈迦の教えがそうだったように、個々の問題を個々が解決するためのヒント、材料にしかならないもので、それを「お題目」にして人さまに唱える事を強いれば強いるほどアホウに見えたのが、曲解されたアドラー心理学の発信者だったと言ってよい。