アドラー心理学はかっこいい
https://mbp-japan.com/fukuoka/fukuokarecia/column/5051353/
ごめん私の言い方がまずかった。皆さん「嫌われる勇気」の解釈が間違ぅとるよ。
と著者がすでに言っているにもかかわらず、
いまだにこういうアドラーの解釈をする人がいるんだなー、と。
嫌われる勇気を持っているオレ、かっこいいだろ?
と思っているなら、それはどう考えても救いようのない承認欲求の権化である。
そこに貢献の精神など生まれない。その証拠にアドラーを曲解する者のほぼすべて、みごとなまでに口さがのない利己主義者、どころか我利我利亡者であり、上からものを言うことを好み世間からまともに相手にされないようなやつばかりである。
本人 「アドラーの知識を得て嫌われる勇気を持ってる俺、かっくいーだろ。な?お前ら」
世間 「マジうぜぇ。寄るんじゃねぇ。隅っこにいろよボケ」
アドラーを知ろうが知るまいが、嫌われる勇気があろうがなかろうが、嫌われるようなやつというのは初めから誰からも嫌われるものである。
ことの初めから人に嫌われがちな、おのれのひんまんがった性格を肯定するためにアドラーを持ち出すというような人というのは、トラウマを言い訳にして何もしないことと同じ。要はアドラーとは正反対のものだよ。そんなやつが、いったいアドラーから何を学んだというのか。
あなたは『嫌われる勇気』を誤解している 「嫌われてもいい」ではない
https://president.jp/articles/-/22920
アドラーは自ら器官障害というコンプレックスを抱え克服した人で、そのカウンセリングも社会的に弱い立場にいる人たちが中心だった。というあたりを頭に入れておかないとアドラーは理解できない。
なんの分野でもそうだが、アドラーの「解釈本」「解説本」はいろいろあっても、そこから得られるものはすべて亜流であって、原著を読まないと意味がない。Amazonあたりでも翻訳本ならいろいろ手に入るのでアドラーに興味があればアドラー自身が書いたものに目を通すことをおススメする。
どうも日本でアドラー好きな人を見るに、誰かが我流に解釈した「マンガでわかる系」を山ほど読んでいるエセ知識人ばかりだったりして、はっきり言えば話の通じる人が少ないのが残念である。