地元のスーパーの冷食日曜半額セールに出かけて気がついた。

 

父の日、なのか。

 

私の父は、私が20歳の時に齢60でこの世を去っている。

 

定年退職して半年後のことであった。

 

まぁ酒も煙草も甘いものも大好きで、

 

あげくろくすっぽ運動もせず不摂生していたから早めにおっちぬのは仕方ないが、

 

しがない地方公務員のくせに、やりたいことやって好きなように生きた風流人であり、

 

あれはあれでいい人生だったんじゃないかと思ったりもする。

 

 

 

今現在、いわき市の高校生の吹奏楽は日本でも上位に入るレベルだが、

 

初めに全国で銀賞を取り、その基礎を作ったのがうちの父であった。

 

それによって県の高等学校吹奏楽連盟の理事長をしていたりもしたが、

 

今の指導者たちにも父の教え子は多い。

 

自身もフルート奏者で、なぜか黄金のフルートで有名な ランパル と

 

似たような顔を並べて肩を組んで笑っている写真があったりするが

 

どういう付き合いがあったのかはよく知らない。

 

父の名は残らないが、父の遺した仕事はそうやって次の代へ受け継がれている。

 

そういうのが仕事としては一番いい形かも知れない。

 

 

 

その父が心臓発作で救急車で運ばれたとき、

 

いわき共立病院の救急の担当医がその時間どこ行っちゃったんだか行方不明。

 

病院関係者がその所在を誰も知らないという、ていたらく。

 

さすがに救急隊員も憤りを隠せず病院関係者に罵声を浴びせる状態。

 

しばらくして医者が戻って来たとき、父の玉の緒はすでに事切れていた。
 
その後、納得いかないので、その医者を訪ね問い詰めたとき、
 
予想通り無責任な、ひどい態度の対応を受けたが、
 
その医者の机の上に医学書のたぐいは見当たらず、
 
ダイヤモンドで儲ける法、とか、楽々証券なんとか、とか、子犬の育て方、とか、
 
そんな、ふざけた本ばかりが並んでいたのを見て
 

その場で殴りころしてやりたい衝動を抑えるのにひどく苦労したのを思い出す。

 

(私が「へでなし」な成功哲学や自己啓発のたぐいが嫌いなのはあの時の記憶かもしれない)

 

怒りを拳の中に握りしめたまま家に帰ると、

 

園芸などまるで興味のなかった父が前の冬に珍しく自分で買ってきて

 

育てていたシャコバサボテンが、玄関で一輪だけ花を咲かせていた。

 

胸が詰まっって、 「ぐ・・・」 と思わず声が漏れてしまった。

 

 

 

その後、その医者は中通りの地元に戻って親の病院を継いだが、

 

妻は早くに病死、息子は自殺、娘は事故死、で家族をすべて亡くしている。

 

普通なら、さすがに人さまの不幸を喜ぶ気にはなれないが、

 

あのとき私が本気で強い殺気を向けたのが悪かったか、あるいは邪視が発動したか(?)

 

いずれにせよ、はっきり言えば、「溜飲が下がる思いがした」 のは確かである。

 

正直言えば、数十年経ってそれを人から聞いて知った時、・・・笑いがこみあげた。

 

そのころ既に私はそれを聞いてもなんとも思わないほど、

 

すれっからしで非情な人間になっていたともいえる。

 

 

光が私を助けたり導いてくれたことはない。

 

いつもなんどきも闇に助けられてきた。

 

闇はいつも私の中に在って私を見捨てなかった。

 

そんな私から見ると、

 

あの春風のように、強くおおらかで、明るくて、あたたかい、楽観的な父の姿は、

 

遠いな、

 

と思えてしまう。