少し前になりますが、元同僚の女の子とサシ飲みする機会がありました。
彼女は真面目で健気で正義感の強いタイプで、よく職場で女性同士のトラブルの仲裁にあたることがあるそうです。若いのにかわいそうです。
彼女は、なんで女性同士のトラブルはこんなにめんどくさいのか、理解に苦しむ、もしかしたら私がおかしいのではないか?と、不満から不安に変わっている様子。真面目な彼女らしいです。
二人で話し合った結論。人間、なんかトラブルがあった時に本性が出るけど、そこで主語が自分になるのか、周りの人になるのかの違いは大きいのではないか。
つまり、問題解決に対して
「それでは私が納得できない」
なのか、
「それでは他の人が納得しないと思う」
なのか。
主語が自分の人は、まず自分の考えを理解してほしいし、ケアしてほしい。その対応を間違えると蔑ろにされたと感じ、不快感を露わにする。
主語が他人の人は、問題に関わるすべての人の利益をまず考えるので、自分は後回し。
世の中は大きく分けてこの二種類の人間で構成されている、という結論に話し合いの末に至りました。
あとあと個人的に考えてみたのですが、JWはそのあたりを上手く利用しているなと。
もともとは組織発信のものだったのに、都合が悪くなると責任を信者個々のものであったかのようにすり替え、責任転嫁してしまう。
主語が勝手に置き換えられてるんですよね。
これでトラブルの解決に至る道筋はガラッと変わる。
鞭問題にしても、「私は子どもたちの為を思って叩いてきたのに」っていつまでも言っている親たちは、常に主語が自分なんで、なかなか納得してくれない傾向にあるのかなと感じました。
なんとなくニュアンスで書いてますし、そんなこと当然じゃん?なんてご意見もあると思いますが、学歴の低い無能なおじさんの書くブログなので、ご容赦願います…。
一緒に飲んでた女の子に、
「今日、話してて気がついたんだけど、貴方の話の主語にずっと貴方がいないよ。もっと自分のために生きてもいいんじゃない?」
なんてキザなことを伝えましたら、なんと彼女、泣き出してしまいました。
いろいろ我慢してたんですね。彼女のような優しい女性がもっと評価されて、寄り添ってあげられる人が増えてくれる世の中になって欲しいなと感じました。
自分本位で生きることを否定しているわけではございません。要は自分しか見えないのか、他の人のことも見えているのか、視野の違いだと思います。
相変わらず意味のわからんこと書いてごめんなさい。