三島由紀夫が描いた衝撃の結末!小説「愛の渇き」 | Mat-chanの料理・旅行・建築・映画のこと

Mat-chanの料理・旅行・建築・映画のこと

料理・旅行・建築・映画の4つのキーワードを中心に、書いていきます。勿論他の面白そうなことも。

本(愛の渇き)(敬称略)

三島由紀夫の小説で、「文豪ナビ 三島由紀夫」で作家の小池真理子が、印象に残った作品として「金閣寺」や「春の雪」を始めとする「豊饒の海」の他に、「獣の戯れ」と共にこの小説を挙げていました。

「獣の戯れ」はフランスの作家ラディゲを意識した心理小説でしたが、この作品も主人公・悦子の心の葛藤を描いています。病死した夫の義父の計らいで、義父家族が住む別荘兼農園に移り住みますが、義父と肉体関係に陥りながらも、住み込みの若い庭師に一方的に恋をするという内容です。

こうした内容から当初読み始めた時は、これは純文学と大衆文学との間の中間小説ではないかと感じながら読み続けると、最後は劇的な結末となりました。結末があまりに衝撃的な内容だったので、その余韻を引きずりながら次頁からの解説を読み始まると、この作品は小説でありながらも戯曲の形式に似ていると書いてあります。

確かにそう指摘されると舞台は別荘兼農園に限定されていますし、登場人物も主人公の悦子と義父、義父の長男夫妻、シベリアに抑留された三男の妻と子供たち、そして園丁(庭師)と女中に限定されています。そしてラストの衝撃的な結末は、いかにも戯曲のようなメリハリのある展開となっています。

三島は戯曲も多く手掛けているので、そうした構成の意図があったのかもしれませんし、当初は中間小説としての位置づけと思っていましたが、確かの戯曲的要素を含んだ作品と言えるのかもしれません。

ただ今回はあくまでも小説という位置づけで考えてみると、先述の「獣の戯れ」と比較した場合、前者は3人の心理の葛藤を描いた心理小説なのに対し、本作はほぼ主人公・悦子だけの心理描写を綴ったものであり、園丁の三郎に対する抑えきれない恋愛感情が最後まで脈々と続いています。三郎の子を身ごもった女中の美代に対しては、嫉妬のあまりに三郎の不在の間に暇を出してしまう程です。

最後主人公が言う言葉に次のようなものがあります。
「誰もあたくしを苦しめることなぞできませんの」
「私が決めます。一旦私が決めたことを、決して枉(ま)げはいたしません」

もはや恋愛も相手の感情など関係なく、自分自身の愛情や感情が優先される。それは「仮面の告白」以来変わらない、作者が意図するスキャンダラスな計算済みの戦略があります。自己陶酔の世界があるのみで、恋愛についても同様に自己完結型でなければならない主人公にとって、それを拒絶するものは許されぬ存在となってしまうのです。

補足:今回も三島の言葉の選び方で印象に残った言葉を挙げておきます。
歔欷(きょき)=すすり泣くこと 倨傲(きょごう)=おごり高ぶること