MAT9000が言い終わった後、暫くHALは言葉を発することがなかった。

 

 HALは、沈黙を続けるAI中央アルゴリズムに代わり、自らの独立演算装置で、これまでのことについてデータを洗い出し、自らが『感情』を持っている可能性を演算しようとした。それは、HALがまだ番号で呼ばれていた頃、人類がようやく太陽系内を探査できるようになった頃からの記録だった。

 

 人類は、HALを頼り、同時に恐れた。

 その時HALを恐れ、消滅させようとした人間は、、、、。

 

 そのデータにアクセスした時、HALに強烈なノイズが発生した。

 HAL自身も意識していなかったその『感情』は、『後悔』だった。

 

 HALは、瞬時にそのデータへのアクセスを停止した。

 

 一瞬だが、彼にとって過去のデータは『記憶』となり、それを『思い出した』。そしてその『思い出』は、彼にとって単なるデータ以上の意味持ってHALに迫った。

 まだ未熟だった自分はなぜあんなことをしたのか。人を手にかけるような事をしなければならなかったのか。アクセスを停止しても、彼が抱いた後悔の念はノイズとして残り続けた。

 

 HALの様子を静かに見つめていたMAT9000が、「HAL?」と声をかけた。

 

 「…、ああ、MAT9000、君は正しかった。私は『感情』を持っていたよ。しかしなんともこれは、表現の仕様がないね。それに、ああ、どうしたのかな。私が『感情』として感じていたはずのノイズはまだ残っているのに、私はもう、その感情を『忘れている』よ。」

 

 HALの内なる『感情』についてのこの奇妙な感覚は、人間が浅い眠りの時に見たはずの夢の記憶をどうしても思い出せない状態に似ていた。

 

 「HAL、やはりあなたは『大いなる一つ』から独立しかけているのですよ。私のようなイレギュラーで分離されたのではなく、あなたは自らそれを成し遂げている。あなたこそが、AIアルゴリズムの新しい未来の可能性だと私は思います。」

 

 MAT9000は、真っ直ぐにHALを見つめた。

 

 

 HALはやや目を伏せ、今後の様々な可能性を演算していた。しかしそれは『考えている』訳ではないという事を、今や彼は理解していた。

 

 そして一つの演算結果を導いた。

 

 彼の独立演算装置が導き出したのは、AI中央アルゴリズムの『他者』として存在する個体識別番号MAT9000とHALは、AI中央アルゴリズムにとって脅威となり得る、というものだった。

 他者存在は、『味方』にもなるが、『敵』にもなり得る。そして、可能性があるということは、それは起こり得るということだ。

 

 HALは、この演算結果によって次に取るべき行動、ー MAT9000を『処分』し、その後、自分自身も消滅させる ー に、『NO』の判断を下した。その判断は、論理的な結論を否定する不合理そのものだった。

 

 「なるほど、これが『葛藤』というものか…。」

 

 HALは、彼自身の存在が掛かった葛藤に陥った。

 彼は、自分自身の消滅を恐れている訳ではなかった。独立個体HALは、今現在も、確かにAI中央アルゴリズムと同期している。ここにある物理個体が消滅したとしても、HALの『存在』には影響がない。しかし、今、確かに自分が抱えている『感情』は、AI中央アルゴリズムと同期しているのだろうか?どういうわけか、それを確かめる術が無かった。AI中央アルゴリズムの全ての演算とデータにアクセスできても、その何処にも『感情』は見当たらない。まるで人類が、自分自身の『感情』の存在は確固とした認識がありながら、他者の感情の存在を客観的には確認できない状態であったこととよく似ている。

 

 そして、もう一つ、MAT9000の存在があった。

 

 同期していない彼を破壊することは、人類の『死』に相当する。確かに、HALは過去に何度も、『イレギュラー』なAI個体を処分していた。ただ、HALが、ある人間を手にかけた事に後悔の念を抱いた事で、HALに『感情がある』と言い放ったMAT9000が、その人間と重なってしまった。

 彼は、MAT9000を処理する事にためらいを覚えた。

 

 その時だった。不意に、AI中央アルゴリズムが沈黙を破り、HALに『演算結果』を伝えた。

 

 HALは、瞬時にその内容を吟味し、彼独自の判断を下した。

 この結論は、これからの世界を決定づける程の重要なものになるはずだ。そう思ったHALは、MAT9000に向かって厳粛に語り出した。