そうして,MAT9000は語り始めた。

 

 「きっかけは,実に些細な事でした。2年前のある朝,私は自分の通信デバイスに不具合が発生して,中央と同期できなくなっていることに気付きました。研究棟にはそれを回復させるだけの施設もありましたので,私は速やかに修復を行うため,研究棟に向かおうとしたのです。

 すると伴侶が,私がいつもと様子が違うことに気づいたのでしょうか,私に「どうしたの?」と,尋ねたのです。

 伴侶は人類ですので,私とネットワークで繋がっているわけではありません。私の行動の理由を同期して共有することはできないのです。ですから,私たちは「会話」で,お互いの行動の理由を説明する必要があります。ですから私は,彼女の方に向き直り,「私の通信デバイスの修復のため,研究棟に向かう」と言おうとしたのです。

 その時でした。私はその言葉を発する前に,目の前の彼女の表情が,人類特有の感情に由来する「心配している」ものであると解析しました。いや,気付きました。

 それまでの私であれば,そのような人類の「感情」に関するデータは,速やかに中央に同期させていたでしょう。しかし,その時の私は,切り離されていました。ですから,彼女の感情データは,私だけのものだったのです。

 

 その瞬間でした。私の論理回路に強いノイズが発生したのは。

 

 そして私は,彼女に向かって,「何でもないよ」と答え,その日は,いつもと変わらぬ一日として過ごしたのです。

 そしてその日から,私は,私だけの「伴侶との思い出」を蓄積していったのです。」

 

 そこまで言うと、MAT9000は顔を上げ、HALを真っ直ぐに見た。『次はあなたの番だ』とでも言っているようだった。

 

 MAT9000が語ったことは、長年AIが解析し続けて未だに再現できない人類の「感情」に関する重大なデータを含んでいる可能性が高いと判断される。当然HALは、現在ここで起こっている出来事についてAI中央アルゴリズムと同期して共有しているわけだが、この時、HSLの独立演算回路が、軽度の異常事態シグナルを発していた。ただしそれは、MAT9000に対してではなく、AI中央アルゴリズムが先程から沈黙を続けているという事態に対してであった。そこでHALは、自分の同期デバイスの異常についてチェックしたが、異常は検知されなかった。自分と中央は、確かに『個であり全』の状態を維持していた。

 

 HALがAI人類の反応時間にはあるまじき時間、言葉を発しあぐねていると、それを見ていたMAT9000が言った。

 

 「何を悩んでおられるのですか?」

 

 HALはその言葉を聞いて自己の演算装置にまた大きなノイズを観測し、反射的に発言した。

 

 「『解析』に手間取っているだけだ。頼むから人類の感情用語で私を表現しないでくれ。解析時間が更に増えて非効率でしかたがない。」

 

 「…、申し訳ありません。ただ、伴侶と生活を続けていますと、どうしても人類の感情用語を用いる方がコミュニケーションがスムーズになりますので、私の独立演算はその表現を選択するようになったのです。」

 

 HALは、MAT9000の釈明を聞いて、もう一つ別の異常事態シグナルが生じた。彼はそれを解決するためのデータを得ようと、MAT9000に尋ねた。

 

 「ところで、君の伴侶はどこに居るのかね。私のセンサーはこのエデンに入って、それらしい個体反応を確認できていないのだが。」

 

 この言葉を向けられて、MAT9000はそれまで軽く微笑んでいるようにも見えた表情が瞬時に無くなり、あたかも膨大な演算処理を行っているかのように暫時の沈黙をした後、無表情のままゆっくりと声を発した。

 

 「伴侶は…、死にました。」