最近話題のアニメーションに、「葬送のフリーレン」という、勇者が魔王を滅ぼした後の世界が舞台の物語があります。その中に登場する「魔族」と、彼らが用いる言葉についての設定がとても興味深かったので、少し考察してみたいと思います。

 

 ストーリーの詳細はここでは述べませんが、その世界の中に「魔物」という、姿は人間に近いものの、人間を捕食する危険な人食い種族が登場します。更に、この魔物の中で、人間と同じ言葉を発する種族がおり、それらは「魔族」と呼ばれています。

 

 しかし、この魔族の言葉は、一見すると人間が用いる言葉と同じなのですが、その使用目的は人間のそれとは全く異なっています。

 

 主人公である魔法使いフリーレンは、言語を用いた魔族とのコミュニケーションを早々に放棄しています。フリーレンによれば魔族の先祖は「人をおびき寄せるために物陰から『助けて』と声を発した魔物」なのだそうです。なお、魔物の中で言葉を発する種族を「魔族」と定義したのはフリーレンの師である大魔法使いフランメです。

 

 つまり、魔族にとって(対人間に向けられる)言葉とは、チョウチンアンコウが餌を誘き寄せるために頭の上から垂らした擬似餌のようなものなのです。

 

 物語は、この言葉を介した人間と魔族とのコミュニケーション不全を恐ろしいまでに淡々と描いています。

 

 僕は、ここに描かれている「価値観が決定的に異なる別個体どうしの言葉を介したコミュニケーション不全」は、決してこのファンタジーの中だけの話ではない気がしています。

 

 現代社会において、人々が共通の価値観を持つことは、非常に難しくなっています。本来、現代社会が成立するためには、ルソーの言うところの共通の価値観としての「一般意志」がなければなりませんが、それがどこまで人々の共通認識として成立しているのか、甚だ疑問です。更に、「魔族」は人に似ているといっても角があるので人間との区別は容易ですが、人どうしの場合はその区別も難しいでしょう。

 

 ただ、間違ってはいけないのは、フリーレンの世界では「魔族」は排除の対象ですが(今後ストーリーが進むに従って変化するかもしれませんが)、我々の現実の世界では、価値観が異なるとしても、直接的に社会に害悪を及ぼさない限り、その存在を許容し、社会に受け入れていかなければなりません。それこそが、社会が成立するための「一般意志」の一つだと思うのです。

 

アニメ『葬送のフリーレン』公式HPより。

 

 全く逆に、言語の不存在がコミュニケーションに影響を与えない事例を示しているのが、『出来る猫は今日も憂鬱』です。以前に考察したものがありますので、よければこちらもぢうぞ。