NHKの大河ドラマは、「なんとなく観ている」部類の番組で、僕はそれの歴史認識よりも、歴史をベースにしたドラマと、旬の役者さんたちの演技の方に興味がある。

 

 ネットでは、今年度の大河ドラマ『どうする家康』の歴史認識について、あまりにも史実を無視した内容であるとの批難的な記事が散見されているが、個人的には、そんなに目くじら立てることかなあ、と思っている。

 

 学問としての歴史を知りたい、というのであれば教育場組でも観ていればいい。確かに大河ドラマを観て歴史に興味を持った、という人も一定数いるだろうが、そのような人はあくまで大河ドラマを歴史の「入り口」として、その後、学問としての歴史に進んで行かれればよい。

 

 ただ、もしも「大河ドラマが『史実』を語っていない」ということを問題とされるなら、僕はこの問題そのものの、特に『史実』と言われる部分に疑問を呈したい。

 

 話は変わるが、僕の妻が大好きな舞台に『刀剣乱舞』という、歴史上の刀剣が人間に顕現して、歴史修正を目論んで各時代に現れる敵に立ち向かう、という舞台のシリーズがある。そこに三日月宗近という、現物は国宝になっている主人公格の刀剣がいて、彼はその使命である『歴史を守る』ことから逸脱し、史実で生じる悲劇に巻き込まれる人々を『諸説に逃す』という事を行う時がある。

 

 僕は歴史家ではないので、あまり滅多なことは言えないが、学問としての『史実』は、近代科学主義を踏襲しすぎていやしないかと思う。もちろん学問としての体裁を整えるならば、論理的かつ反証可能である必要があるため、今に残る資料を根拠とすることは当然であろう。ただ、それを書いたのも人間である。現在の人間が嘘をついたり、自分を取り繕うための誇張した表現を用いるのに、歴史上の人物がそれをしなかったと考える方が不自然だし、何らかの主観は必ず入っていると考えるのが普通だろう。

 

 もちろん、歴史学者の方々は、それらのことも十分承知で、同一事物についての複数の記述を比較したり、立場の違う人々が残したものを照合したりして、何が最も信憑性が高いのかを確認しておられるだろう。そのような歴史学上の成果を否定するつもりはない。

 

 ただ、「ドラマ」としての歴史ならば、そこに人間の営みも描かざるを得ない。そうでなければただの教養番組でしかない。なので、主人公が変わるだけでガラリと歴史上の人物の扱いが変わるのも、歴史の視点が変化する以上、しょうがない。

 

 歴史の『正しさ』に執着するような論調は、ある意味逆に歴史修正主義にも繋がりそうで、少し違和感を感じるのです。