先日、「区別とは無意識の差別だ」と主張しました。言い過ぎたとは思いませんが、やや現実的には分かりづらく、万人に素直に受け入れられる主張ではなさそうです。

 

 かくゆう僕も、日常生活の中の「区別」に、どういう「差別」が潜んでいるのか、時折悩んでしまいます。

 

 先日は駐車場に車を停めた時、出入り口付近にある「身障者用」の駐車場を見て、「これは差別なのか?」と、結構真剣に悩みました。

 

 いろいろ考えて、「身障者用」の区別に関する諸々の合理的解釈には、ベンサムの『最大多数の最大幸福』が当てはまることに気がつきました。

 

 いわゆる健常者が駐車場を利用する時、出入り口付近からやや遠いところに駐車をしても、移動の苦労は大きく変わりません。つまり、距離の差による幸福度の変化は小さいのです。しかし、身障者や高齢者、妊婦さんなどは出入り口付近に駐車できる事により幸福度が格段に大きくなります。これにより、コミュニティ全体としての幸福度の総量は増加するため、身障者用駐車場はベンザム的に解釈すれば「正義に基づく政策」となります。

 

 一般にはこのような「区別」は、「合理的配慮」と言われています。ですので、社会正義が根底にある「合理的配慮」は、緊急避難的に実施される「区別」として、認められて然るべきなのでしょう。

 

 『区別は、無意識の差別』だ、などと威勢のいい事を言っておきながら、「合理的配慮」という抜け道は認めるなど、御都合主義だと言われそうですが、そもそも実社会が完全なインクルーシブの状態であれば、「合理的配慮」など必要がありません。しかし実情がそうでない以上、むやみやたらに「区別するな」と主張するのも、マイノリティの状態にある方々の権利の保証に繋がらないと思われるのです。

 

  ここで、絶対に受け入れるわけにはいかない主張を否定しておきましょう。

 

 それは、「障害者そのものが社会的な幸福度を押し下げているので、排除してしまえ」という考えです。

 

 まず、障碍者やその他マイノリティーの方々は、少なくとも法的には憲法の範疇にある私たちのコミュニティの一員です。そうである以上、これらの方々を除外してコミュニティの幸福量を想定するわけにはいきません。それは「正義」に反する行為です。

 

 これ以降は僕の個人的な見解なのですが、いわゆる「同性婚」について、憲法に婚姻は「両性の合意のみに基づいてなされる」とあることから、憲法が規定しているのは「男と女」のみだとして、裁判でもなかなか認められることがないようです。しかし、僕は憲法が想定しているのはそのような瑣末なことではなく、国民全体の幸福を目的としていると思うのです。

 

 であるなら、「同性婚」は認められるべきだし、また、言葉の問題というなら、「両性」を「二種類の性」ではなくて「二つの性(男と男、女と女、LGBTqでも。)」と解釈してしまえばいい。それくらいの解釈変更なぞ、憲法9条で散々やってきているではありませんか。

 

 「合理的配慮」による「区別」がなくなることは、確かにマイノリティの方々への「差別」がなくなる事を意味します。ただ、勿論その方向性は、「インクルーシブ社会の達成」として実現されるべきであり、間違っても「マイノリティの排除」であってはなりません。

 

 

 これを書いている最中に、アメリカ連邦最高裁判所が大学の入学選考において人種を考慮に入れてはならないとの判断を示したとのニュースが飛び込んできました。アメリカで長年採用されてきた「アファーマティブ・アクション」(的差別是正措置)に関して、45年前に同種の判断で『合憲』とした判決を覆す形での判断であり、今後のアメリカ社会に大きな影響を招くことが予想される判断となりそうです。

 

 もしもアメリカがこの「合理的配慮」を実施しなくても十分に社会正義が保障されており、実施する方がかえって不平等を助長する、という状態に「本当に」なっているなら、この判断は社会の「良い」変化を汲み取ったもの、と言えるかもしれません。

 

 しかし、連邦裁判所の判事は先のトランプ大統領の時代に、保守派が多数を占めるようになりました。もし、この判決がこのような『政治的な』要因によるものであれば、長期的にはアメリカ社会の分断を広げるものになるでしょう。

 

 この問題は、「身障者用駐車場」のように私たちの日常に深く関係していながら、大国の在り方にまで影響を与える課題であるようです。

 

↓ 前段の主張です。