みなさんは、自分の考えというものをどれぐらい大切にされていらっしゃいますか?

 

 僕は、自分の考えというものは、思考の出発点であり、そこから様々な修正を経て到着点に向かうものと思います。もちろん、「到達点」も、自分の考えであることには間違いありません。

 

 大切なことは、「出発点」としての今の自分の考えから動いてみることです。自分の考えに対し、様々な「検証」を試みる。そうして、考えを鍛え、時には修正する。

 

 その作業は、たとえば周囲から見た場合、「あいつは矛盾した意見を持っている」と思われるかもしれませんが、時間と共に思考が変化する事は人間の思考においてはよく起こることですし、逆に出発点の考えに囚われると、思索は進歩していかないと思います。

 

 ただ、「信念」や「ポリシー」といったものについての修正はなかなか難しいことだと思われますが、それは「常識」と同様、社会構造や時代の風潮によって左右されるものである場合が多いことを知る必要があります。

 

 (たとえば、「伝統」という名において様々な女性蔑視が現在も行われている事を、どう捉えるか、という問題にも関わります。.....もしかすると、「伝統」とは、「無意識の差別」の温床かもしれませんね。)

 

 少し話が大きくなりそうですので、話題を「個人の考え」に限定します。

 

 僕がどうも気になっているのが、「あなたはあなた、わたしはわたし」という考え方、いわゆる相対主義です。

 

 よく使われるのが、「人には人の考えがあるし、自分は自分の考えがある。お互いを認めなきゃね。」という、小学校の道徳の時間の先生のセリフです。

 

 この言葉自体には、間違いは含まれていないと思います。文章としては、正しい。

 

 ところが、ここで言われている「考え」を、先に述べた「出発点」と「到達点」までを全部含んでしまった「考え」としてしまったときに、弊害が生じます。

 

 つまり、自分の考えというものを「完結した存在」と捉えた場合、たとえ相手の考えを「認めた」としても、自分自身の考えは無傷で残ります。

 

 これは大変に楽なやり方(生き方?)ではありますが、これでは人の話など聞いていないのと同義です。

 

 よく「考え方が幼稚だ」と言われる人がいますが、そういう人はたいてい、「人は人、自分は自分」を貫いているようです。

 

 そりゃそうです。「はじめから完結した考え」とは、「幼稚な」考えから踏み出していないことになるのですから。

 

 ウイトゲンシュタインの引用で恐縮ですが、彼は、「思考の価値とは、その『勇気』で計られる」と言っています。

 

 自分の考えを疑い、修正を加える、また、常識の中に潜む毒を暴き出す事、それらにはとても勇気が必要になると思うのです。