新型コロナウィルス5類移行に伴うマスクの自己判断について、あるニュースのコメント欄に、いくつか「同調圧力」への私たちの振舞いについての批判がなされていた。

 

 曰く、「同調圧力」という言葉は、自分自身の主体性を放棄して、あたかも自己の行動の責任が外部あるかのような、一種の責任逃れとして用いられる、という内容だ。

 

 この考察には僕もなるほど、と思うところがあった。「周りがそうしているから」では、まるで『赤信号、みんなで渡れば怖くない』(byビートたけし 古い!)に現れる、主体性が皆無でその行動に誰も責任を取らない状態だ。しかもこの「同調圧力」を受ける個人は、まるで被害者であるかのような印象を受ける。しかし実は同調圧力による行動をとること自体、その圧力を強化しているため、同調圧力に取り込まれた瞬間に、その人は加害者(後で述べるが『擬似権力者』と言うべきかもしれない)になる。

 

 その事を喝破されたのはすごいなと思ったが、いくつか、その続きの内容に僕は「?」を浮かべてしまった。

 

 それは、予防を万全にして感染したのなら仕方ないが、いい加減な感染予防しかせずに感染して他人に迷惑をかけたのであれば責任を感じるべきだ、との主張だ。

 

 これは見事に『同調圧力』そのものではなかろうか。

 

 このように考えて自己の行動を規制することはフーコーの言う「規律の内面化」であり、それが外に向かうと権力と同じ働きをする。それが『同調圧力』の正体であり、日本人がコロナウィルス対策において政府からの行動制限は「お願い」レベルであったのにほとんど完璧にマスクを着用し、『三密』を回避した理由だ。

 

 この「規律の内面化」を自覚することは非常に難しく、私自身もこのような批判的な内容を書いていても、心情的には先の主張には大筋で同意してしまうのが正直なところである。

 

 この際、政府の「お願い」が取り払われた時、私たちの「規律の内面化」がどれほど進んでいるのかが確認できるのではないか、今の僕の興味はそんなところにあります。