今週末は、大学入試共通テストが実施される。僕らの世代は『共通一次試験』または『センター試験』の方がまだ通りがいいだろう。

 

名称は変わっても、あの悪名高きマークシート方式の採点方式が、「正解」を効率的に、正しく導くように子どもたちを追い立てている。いや、子どもたちだけではなく、子どもたちにそれを求める先生もそうだし、日本の学校教育全体が「正解主義」のようになっているのではないか。それは、なんらかの課題解決に必要な基礎学力を養うというよりも、仕組まれたゲームをいかに早くクリアするかのテクニックと大差ない。そういう一元的な能力をもって大学という最高学府への入学が決まっても、学ぶ力や現実の課題解決能力が培われていなければ、「世界で一番勉強しない大学生」の出来上がりだ。

 

もっとも、こんな批判は今に始まったことではなく、それこそ、共通一次試験が始まった1979年度から、既に40年以上の年月に渡って疑念を示され続けている。

 

それでも、半世紀近くこの入試制度が維持されているのだから、まるっきり見当はずれのシステムとも言い難かったのかもしれない。また、先に述べたような「正解主義」への批判をかわすため、思考力を問う問題の導入や、マークシートとは異なる解答様式も検討されているそうだ。ただ、数年前に英検などの外部テストを評価に導入しようとして断念するなど、やや迷走気味なのは制度疲弊の表れであり、これら一連の改善策は一種の延命措置のようにも思える。

 

では、もしも大学入試共通テストのシステムそもののを廃止するとどうなるだろう。

 

更に、各大学の入試内容も、大学独自で定めることができるとしたら。

 

当初は高校の先生方が困惑するだろう。あまりに入試が細分化されてしまい、大学入試共通テストという、まさに「共通」のテストに向けた取り組みができなくなり、生徒への入試指導が困難になりそうだ。

 

ただ、僕は思うのだが、生徒への「入試指導」は限定的にして、生徒自身が自分の希望の大学入試に何が必要なのかは、生徒主体で考えさせた方が良い。もっと言えば、生徒たちは「自分に必要な学びとは何か」という、ある意味究極の課題を自らに貸し、その解決に向かわせるようにするべきではないか。

 

高校のカリキュラムも変わらざるを得なくなるだろう。「何を学ぶか」ではなく、「どのように学ぶか」が主眼となる。そして必要な『学習』は授業時間に行われるのではなく、生徒の『自由時間』に、各自が必要と思われる分だけ、いや、何なら興味関心の赴くままにじっくりと学習すれば良い。高校は、生徒の『学習』を保障するために、極力生徒たちを拘束する時間を減らす。部活動は必要な者だけの自由参加。補習課外授業などもってのほかだ。

 

懸念されるのは、現状の学校システムではこれらの変化には対応できず、民間企業がその運営に乗り込んで来る事だ。ただ、それがまるっきり悪いことかと問われると、正直言って僕は腕を組んで考え込んでしまう。

 

理想を言えば(ここまでも十分に理想論でしかないが)、既存の学校教育に入り込んでくるのは、できれば民間企業ではなく、地域のコミュニティであることが望ましい。(このことについては、以前に僕は『「子ども」という得体の知れないもの』という考察で考えを述べていますので、よろしければ下記を御参照ください。)ただ、地域のコミュニティが分断され、個々人が「消費者」として企業に繋ぎ止められてしまっている現在、(僕はこの状況も、ここ五十年間の共通一次試験から始まった「正解主義教育」が大きく影響を与えていると思っている。)本来、学校と共に子どもたちを支えるべき地域コミュニティに教育の一端を担う余力がない。僕たちが子供の頃に盛んだった地域のスポーツリーグや廃品回収などの子供会活動が最近は全く行われていないか、規模縮小され、それに携わる地域の大人たちも積極的に地域コミュニティへ参加しようとする人は非常に少なくなっている。

 

つまり、学校システム外での教育力として半世紀末にはまだ機能していた地域コミュニティが疲弊している分、そこに市場原理で動く民間企業が入り込んで来ることは容易に想像できる。そうなると懸念されるのは経済格差による教育格差の広がりだろう。ただここは、このような副作用が生じる事を見越して、教育格差是正の措置は別途考えるべき事だと思う。

 

では次に、『大学入試共通テストを廃止することは可能か』を考えてみたい。

 

これは即ち、大学入試共通テストを所管する「大学入試センター」という組織を解体できるかということになる。

 

ただ、残念ながらこの問は哲学では語ることができない。そこには政治的な思惑や文科省の既得権益(天下り先の確保)といった、理想でも理念でもない力学が働いている。

 

ただ、逆に言うとあれこれ考える必要はない。「大学入試センター」に代わる新たな天下り先を準備すれば良い。そしてそれが、いままでのものよりも「おいしい」ならば、もしかするとあっという間に「大学入試センター」は解体できるのではないか。

 

どこまでも妄想にすぎない事ではあるが、もしも本当に新しい教育の地平を目指して(よりよい官僚の経済的豊かさを実現するために)、古い体制を解体し、新しい体制が作り出されるとしたら、後付でも良いので、その新たな組織が、今後日本の教育の百年の計を見据えて動き出してもらいたいと思う。