国連の障害者権利委員会が日本政府に対して、障害児を分離した特別支援教育の中止を勧告したという。ネットの反応の多くは、この勧告に対して否定的なものであり、障害児が通常学級で過ごす困難さや、障害児に対して手厚い支援を行う特別支援教育の有用性が多く述べられていた。

 私はこの勧告の詳細や全文を探し出せていないのではっきりしたことは言えないのだが、どうも、国連側の意図と、ネットに否定的な書き込みをしている人たちとの間に、かなり大きな前提条件の齟齬が生じているように思う。

 

 敢えて極端な物言いをさせていただければ、否定的な意見を述べられている方々の多くは、「障害児を通常学級のシステムに入れる」事への疑念や心配をされているように思える。これは至極当然の心配で、私もそんな政策がなされようとするなら、断固反対する。

 ただ私は、国連の勧告はそのような意図ではなく、「一人ひとりの個性に応じた教育を同一の空間で実施せよ(一般にインクルーシブ教育と呼ばれる)」と言っているように思える。

 

 私たちが持つ通常学級のイメージは、健常児が身につけるべき知識や技能の何らかのイメージがあり、その「理想像」に子どもを近づけていく、というものが一般的だと思う。そして、その理想像の枠にどうしても収まりきれない子どもを障害児として特別支援教育という別の枠組みで教育する。非常に嫌な言い方になってしまったが、現在の教育システムはこのように表現されるのでないか。

 国連は、この伝統的とも言える日本の教育システムへの警鐘を鳴らしたと考えるべきだろう。

 健常児や障害児といった枠組みで子どもを分類するのではなく、一人ひとりの個性にしっかり対峙した枠組みのない教育を実現すれば、普通教育とは「別に」特別支援教育というシステムを準備する必要はない。あらゆる子どもが「普通支援教育」という単独の教育システムを受けるだけのことなのだ。

 

 無論、残念なことに現状では理想論に過ぎる。ただでさえ教員の長時間勤務と教育現場のブラック化が問題とされる中、予算と人員の裏付けがない状態でこの「普通支援教育」を実施しようものなら、学校現場は疲弊どころか崩壊するだろう。ただ、逆に言えば予算と人員を確保すれば少なくともシステム構築は可能だ。

 

 恐らく国連勧告を実現するためには、二つの側面、すなわち「予算や人員確保」といった物理的な面と、「私たちの教育に対するイメージの変革」という精神的な面を克服する必要がある。

 

 既に画一的な製品としての子どもたちの製造を目的とした教育の、高度成長期の終了と共に生じ始めた綻びが看過できなくなっいる現在、効率的な教育を放棄し、非効率なインクルーシブ教育を私たちが受容しなければ、Society 5.0と呼ばれる画一性が全く通用しない高度情報化社会に全く対応できない単に消費するだけの人間を増やすだけになるだろう。

 

 大袈裟かもしれないが、国連の勧告は「あの時真剣に受け止めていればよかったのに」と20年後の日本社会が思うような歴史のターニングポイントになりかねないのではないかと空恐ろしいものを感じている。