ソクラテスは「無知の知」という概念を用いて、人間の謙虚さへの自覚と、「よく生きる」事への指針を示した。
 このことの実践は非常に難しい。なぜならば我々は、自分が無知であることをあまり自覚しないし、自覚したくもないからだ。
 無知の自覚を避けようとする理由は、いくつか考えられる。
 一つは、元来、人間の能力に限界がある以上、「全てを知る」ということが不可能であること。それゆえ、人は自分自身が「知るべき事」を取捨選択している。つまり、人間には多かれ少なかれ無知の部分があるということは自明のことであり、そのことをあえて明らかにする事はないだろうという思いがあると考えられること。
 また、「知らない」事が取捨選択の結果であるということは、それは「知らない」というよりは多分に「知ろうとしない」事であるということも、「知らない」という事実から目をそらす一因となっているだろう。
 それどころか、私たちは「知らない」事柄をあえて遠ざけたり、見ようとしなかったり、無根拠に恐れたりしている。そうすることは、ある意味では防衛本能のようなものと言えるかも知れない。『知らないことは遠ざけておけ』、もしかするとこの命題は、処世術の中でもかなり上位にあるのではないだろうか。
 
 私たちは、自分自身が「知るべき事」と「知らなくてもよいこと」をうまく取捨選択し、社会的に不都合のない範囲での限定的な知を集めていると言えよう。その状態で満足だというのであれば、あえてソクラテスの言う「無知の知」など、自覚する必要もない。社会のこの現実が、恐らくは「無知の知」の実践の最大の妨げとなっている。

 しかし、私たちが「知」を取捨選択し、切り捨てた「無知」の部分を避けているということは、私たちが常に差別者になり得る事を示している。切り捨てられた「無知」と、それに対する「無関心」は、差別や偏見の温床であるからだ。
 もっと言えば、私たちが「全てを知る」ということが不可能である以上、私たちは本質的に差別者なのである。しかしその自覚は、「無知である」ことから目をそらしている限り、できない。

 本質的差別者であるということは、私たちは差別者であるということから逃れられないことを意味する。もしもそのことから目をそらして生きるなら、私たちは無知と無関心の中で差別と偏見に飲み込まれ、真実を見失うだろう。しかし「無知の知」を実践するならば、私たちは自分が差別者であるということを了解し、謙虚になれる。 

 
 私たちは「善く生きる」ためには、「無知の知」の自覚から始めなければならないのだ。