新しい職場で、僕は個室に押し込められてしまったので、まず最初にしなければならなかったのは前任者が残した物件の整理と、部屋にあるものの把握だった。
 まあ、一通り必要な物はありそうなので当面は困らないだろうと思うが、少しづつ自分なりにカスタマイズしていこうと思っている。

 しかし、一つだけ困った物が残されていた。
 鉢植えの花である。

 僕が赴任した時には、移転のどさくさに忘れ去られていたのか、水不足の状態で、せっかく沢山つけていた花のほとんどがドライフラワーと化していた。

 すぐさま水を与えたのだが、葉の部分はなんとかみずみずしさを取り戻したが、花は手遅れだったようで、乾燥しきったままだった。

 数日間、そのままの状態で水だけ与えていたところ、少し変化が見られるようになった。
 葉の根本から、新しい花の芽が出始めたのである。

 それで僕は、うーん、と少し考え、思い切って「ドライフラワー」状態の花たちを全部刈り取ってしまうことにした。少し可哀想だったけど、つぼみの状態で乾燥してしまっていた花の芽も、全て取り払った。

 そうして、新しい蕾たちがどんどん大きくなって、僕は毎日それを眺めるのが楽しみになった。そして先日、最初の花が開き、それに続くように次々と花が開いていっている。

 花というものは、なんだかそれが一つの命のような気がするが、恐らくそれは少し違っている。ただ、「花」を個体と考えるのか、その花たちをつける「株」を一つの個体と考えるのかという問いは立てられるかも知れないけれど、それに答えは無いだろう。

 ドライフラワーと化してしまった花たちの生は、花を一つの個体と考えると確かに無意味と言わざるをえないだろう。
 しかし、「生きた」結果が「無意味」だったのであって、はじめから「無意味な生」だったのではない。このことは重要だと思う。

 結果としての無意味であれば、それは意味がある。
 
 先に咲いた花たちが、結果としてその生が無意味だったとしても、その「意味」は、ちゃんと引き継がれているのですよと、みずみずしく咲いた花たちが語ってくれているような気がする。