出勤前に朝食を買いに立ち寄るコンビニエンスストアに、近頃、50歳代とおぼしきオジサンが店員さんとして働きだした。

 自分の子供ほどの若い店員さんに、レジの操作方法などを教わりながら、四苦八苦している。

 いかにも不似合いな職場で働き始めた事情は分からないし、知ったからと言ってどうするわけでもない。

 ただ、とても残念なことは、僕自身が、朝そのコンビニに立ち寄ったときオジサンがいると、がっかりするようになった事なのだ。

 彼の声は、とても大きい。しかも、ダミ声なのだ。あまり、朝から聞きたい声ではない。

 しきりに「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」を、ダミ声で連呼する。

 そして、もう一月にもなろうというのに、未だに、レジを満足に打つことができない。

 朝の混んでいる時間帯であっても、結局は、若い店員さんにフォローをしてもらいながらレジを打つので、手慣れた店員さんが一人でレジを打つときよりも時間がかかる。

 
 本当ならば、「慣れない仕事で大変なんだろうな、がんばってくださいね」と、影ながら応援する気持ちというものを、このような時には持つべきなのだろう。

 しかし、そのように思うように、自分自身を仕向けることには、嘘があるような気がしてならない。

 もし、職場へ向かう道の途中に、別のコンビニエンスストアができたら、僕はそこへ立ち寄るようになるだろう。

 そしておそらくその行為は、僕がオジサンを応援する気持ちになっても、ならなくても、行われる事だと思うのだ。

 特にコンビニエンスストアに代表されるような、「消費」のみを目的としている販売システムでは、客の心理は特に残酷に作用する。

 昔あったような近所の小売店の名物オジサンとは違う。

 そこには、暖かみのない「消費者心理」のみが作用する。

 郊外にも、田舎にも、人と人との繋がりの薄い「消費」が入り込んでいる。

 そして僕自身、そのことを「便利」だとして享受し、一生懸命に働くオジサンを不快に思っているのである。


 *    *    *    *    *


今日、一通のハガキが来た。

 職場の組合の指定店でもあった、紳士服の店が、閉店するという。その知らせだった。

 この職に就いて、もう10年近くになるが、その間、ボーナス時期になると、この店の、もう60を過ぎようという店主が、職場に生地の見本を持って来られて、セールスをされていた。

 仕立ての腕も良く、僕も5、6着の背広を仕立ててもらっていた。

 しかし、最近は、仕事着に使う背広も、ほとんどカジュアルなもので間に合わせるようになり、仕立てた背広は、せいぜい出張の時に着るくらいになり、多くの背広が、タンスに納まっていた。

 昨年の今頃、この店主が来られた時も、僕に新しい背広を(多少しつこいと感じるくらいに)勧められていたのだが、僕は、「最近は、カジュアルなもので間に合わせてるのですよ。クリーニング代ももったいないですから。それに、インターネットや携帯電話などの通信費がかさんで、新しい背広を作る余裕はないのですよ」と言って、断った。

 そういえば、この夏には、在庫処分の案内も来ていた。

 ハガキを読んだとき、この店主が老体に鞭打ちながら販売に回っていらっしゃった様子を、思い出した。このご時世、個人経営の仕立て屋を営むのは、確かに苦労されたことだろう。

 同時に、僕に何の責任も無いのだろうが、なんとなくやるせない気持ちにもなった。

 僕自身は、店主から「お得意様」と言われることを不快に感じていたのだ。

 僕の消費者としての要求は、どこかの「お得意」となるのではなく、変なしがらみもなく、自由な選択を行える事だった。

 それゆへ、職場という消費とは関係のない空間において行われる、制限された「お得意様」としての背広選びを、苦痛に感じ始めるようになっていた。

 しがらみのない自由な消費活動、それは、現代においては当然の「消費者」としての権利として、尊重されているし、そうあるべきであるという考えが、おそらくは圧倒的だろう。

 しかし最近、僕はこの「消費者」という位置づけと、「消費」という行為そのものの持つ意味の変化が、僕たちの生活、特に他者とのコミュニケーションを変化させているように感じている。


 僕は既に現代の「消費者」になっている。

 「お得意さま」ではなく、「消費」という行為のみを行う社会的な機関なのだ。